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2026.07.18

中国大返しの真相 豊臣秀吉は何日で山崎に戻ったのか 距離と不可能説を検証

中国大返しは、羽柴秀吉さん、のちの豊臣秀吉さんが本能寺の変を知ったあと、備中高松城方面から畿内へ引き返した大規模な転進です。よく神速の行軍として語られますが、本当に不可能なほどの移動だったのでしょうか、後世に伝説化された部分があるのかは、距離、日数、講和、撤収の流れを分けて見る必要があります。この記事では、中国攻めから本能寺の変までの流れを整理しながら、秀吉さんはどのような日程で山崎へ向かったのか、備中高松城方面から山崎方面までの距離はどれくらいだったのか、そして中国大返しの不可能説をどう見ればよいのかを確認していきますね(この記事では旧暦の日付で解説を行っています)。

-・- 目次 -・-
  • 中国大返しを理解する前提として中国攻めから本能寺の変までの流れを押さえます
    • 中国大返しは備中高松城の水攻めが講和寸前だったから動き出せました
    • 中国大返しで黒田官兵衛さんは備中高松城攻めと講和交渉を支える立場にいました
    • 中国大返しは秀吉さんが本能寺の変を6月3日夜から6月4日ごろに知った流れから始まります
  • 中国大返しは不可能だったのかを伝説と史料のずれから見ていきます
    • 中国大返し 不可能説は大返し全体ではなく一昼夜で姫路へ戻った説への疑問です
    • 中国大返しは6月5日の秀吉さんの書状を見ると一昼夜説とは違う流れが見えてきます
    • 中国大返しは秀吉さん本人と先遣隊を分けて考える
    • 中国大返しの距離と日数は姫路までと山崎までを分けると整理しやすいです
    • 中国大返しは姫路で軍勢を整えたあと6月9日に山崎方面へ動き出しました
  • 中国大返しは可能だった!
    • 豊臣秀吉さんは約9日で山崎へ戻ったと考えられます

中国大返しの真相 豊臣秀吉は何日で山崎に戻ったのか 距離と不可能説を検証 メインビジュアル画像 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
豊臣秀吉の中国大返しをイメージしたAIイラスト 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

中国大返しを理解する前提として中国攻めから本能寺の変までの流れを押さえます

中国大返しは備中高松城の水攻めが講和寸前だったから動き出せました

中国大返しを考えるとき、最初に見ておきたいのが備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)の戦いです。

羽柴秀吉さんは、織田信長さんの命を受けて中国地方の毛利(もうり)勢と戦っていました。そのなかで大きな焦点になったのが、現在の岡山県岡山市北区にあった備中高松城なんです。

この城を守っていたのが、毛利方の武将である清水宗治(しみずむねはる)さんでした。備中高松城は低湿地に囲まれた城で、力攻めをすれば時間と兵を消耗します。そこで秀吉さんは、城のまわりに堤防を築き、水を引き入れて包囲する水攻めを行いました。

水攻めによって高松城は孤立し、毛利方の援軍も城を救い出すことが難しい状況になっていました。つまり、本能寺の変が起きた時点で、秀吉さんと毛利の戦いは、決着にかなり近いところまで進んでいたということです。

ここが中国大返しを考えるうえで、とても大切なポイントです。もし高松城攻めがまだ激戦の途中だったら、秀吉さんはすぐに畿内へ戻ることができません。毛利と戦いながら撤退すれば、背後から追撃される危険もあります。

しかし実際には、講和(こうわ)の交渉が進み、清水宗治さんが自刃(じじん)し、城兵を助ける形で備中高松城の戦いは決着へ向かいました。秀吉さんは、毛利方との戦いをいったん終わらせる道筋をつけたからこそ、明智光秀さんを討つために東へ向かうことができたんです。

中国大返しというと、どうしても何日で何km進んだのかという話に目が向きますよね~。でも、その前に押さえておきたいのは、秀吉さんが東へ戻れる条件を整えていたことです。備中高松城の水攻めと講和寸前の状況があったからこそ、中国大返しは現実の作戦として動き出したのです。

備中高松城の水攻めで切腹する城主の清水宗治のイメージ画像 作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)
水攻めを受け切腹する備中高松城主 清水宗治のイメージ画像(生成AI)作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)

中国大返しで黒田官兵衛さんは備中高松城攻めと講和交渉を支える立場にいました

中国大返しを語るとき、黒田官兵衛(くろだかんべえ)さんの名前がよくでてきます。官兵衛さんは、黒田孝高(よしたか)さんとも呼ばれ、羽柴秀吉さんの側近として備中高松城攻めに関わっていました。

備中高松城攻めでは、水攻めや毛利方との交渉を進めるなかで、官兵衛さんが秀吉さんの側近として関わっていたと考えられます。ただし、清水宗治さんを味方に引き入れようとする交渉や講和の細部を、官兵衛さん個人の働きとしてどこまで確認できるかは、史料上慎重に見る必要があります。

ここで気をつけたいのは、官兵衛さんを物語のような万能の軍師として見るのではなく、確認できる役割から考えること!

備中高松城は、水攻めによってかなり追い込まれていました。とはいえ、城の外には毛利の軍勢がいます。秀吉さんが東へ引き返すには、毛利との講和をまとめ、背後から追撃されにくい状態を作る必要がありました。

この場面で重要だったのは、戦いに勝つことだけではなく、どの条件で講和し、どのタイミングで撤収できる状態にするかも、大きな判断でした。官兵衛さんは、その判断を支える秀吉側近の1人だったと見るのが自然です。

後世の軍記物や物語では、官兵衛さんの活躍が大きく描かれることがありますが、史料で確認できることと、あとからふくらんだイメージは分けて考える必要があります。

官兵衛さんの役割は、中国大返しそのものを1人で演出したことではなく、備中高松城攻めと毛利方との交渉を支えた点にあります。秀吉さんが東へ向かうには、まず西の戦いを収める必要がありました。その土台作りに官兵衛さんが関わっていたと見ると、位置づけがわかりやすくなるんです。

備中高松城の水攻めで毛利方との講和を模索する黒田官兵衛のイメージ画像 作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)
備中高松城の水攻めで毛利方との講和を模索する黒田官兵衛のイメージ画像(生成AI)作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)

中国大返しは秀吉さんが本能寺の変を6月3日夜から6月4日ごろに知った流れから始まります

中国大返しの流れを考えるときは、まず本能寺の変がいつ起き、秀吉さんがいつその知らせを受けたのかを押さえる必要があります。

本能寺の変は、天正10年6月2日の早朝に京都で起きました。明智光秀(あけちみつひで)さんの軍勢が本能寺を襲い、織田信長さんはそこで命を落とします。信長さんの嫡男である織田信忠(のぶただ)さんも、二条御所で自刃してしまったんです。

一方、そのころ豊臣秀吉さんは京都にはいません。備中高松城の前線にいました。京都から備中高松まではかなり離れているため、変報(へんぽう)が届くまでには時間がかかります。

ここで大切になるのが、秀吉さんのもとに本能寺の変の知らせが届いた時期です。変報の到着時期については、6月3日夜とする見方や、6月4日早朝ごろとする見方があります。いずれにしても、秀吉さんは6月4日の清水宗治さん自刃と講和の成立前後には、信長さんの死を把握していたと考えられます。

秀吉さんは変報を受けたあと、毛利方との講和を急ぎ、清水宗治さんの自刃によって備中高松城攻めを終結させ、東へ向かう流れを作っていったと考えられます。

備中高松城で本能寺の変の一報を受ける羽柴秀吉の陣中をイメージしたイラスト 作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)
備中高松城で本能寺の変の一報を受ける羽柴秀吉の陣中をイメージしたAIイラスト 作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)

中国大返しは不可能だったのかを伝説と史料のずれから見ていきます

中国大返し 不可能説は大返し全体ではなく一昼夜で姫路へ戻った説への疑問です

中国大返しが不可能だったのではないか、といわれる理由は、豊臣秀吉さんが畿内へ戻ったこと自体に疑問があるからではありません。

問題になるのは、備中高松城から姫路までを一昼夜で進んだ、という伝説的な説明です。この区間はおよそ100km前後あります。これを大軍で一気に移動したと考えると、かなり無理があります。

戦国時代の軍勢は、武将や兵だけで動くわけではありません。武器、食料、馬、小荷駄(こにだ)、連絡役も一緒に移動します。しかも、当時の道は現在のように整備された道路じゃないので...。

そのため、不可能説は中国大返しそのものを否定する話ではなく、一昼夜で姫路まで進んだという説明をそのまま受け取ってよいのか、という疑問として考える必要があるんです。

中国大返しは6月5日の秀吉さんの書状を見ると一昼夜説とは違う流れが見えてきます

中国大返しを考えるうえで、大きな手がかりになるのが、天正10年6月5日付で中川清秀(なかがわきよひで)さんに宛てた秀吉さんの書状です。

この書状は梅林寺文書に伝わる史料で、『大日本史料』第十一編之一にも収録されています。中国大返しを考えるうえで重要なのは、この書状が後世の軍記物ではなく、事件当時の動きを知る手がかりになる同時代史料と見られることです。

書状の追而書(おってがき)からは、秀吉さんが野殿(のどの)付近まで進んだ段階で中川清秀さんの書状を確認したこと、さらに状況しだいで沼城(ぬまじょう)方面まで進む意向を示していたことが読み取れます。

ここから考えると、秀吉さん本人は6月6日になって初めて備中高松城方面を離れたのではなく、6月5日の時点で東へ動き出していた可能性があります。

6月5日野殿付近、沼城方面、6月7日姫路という流れで見ると、備中高松城から姫路までを一昼夜で進んだという説明とは違う姿が見えてきます。

中国大返しのルート:備中高松城~野殿~沼城~姫路城 画像 作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)
中国大返しのルート:備中高松城~野殿~沼城~姫路城 画像作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)

中国大返しは秀吉さん本人と先遣隊を分けて考える

中国大返しの日付を整理するときは、秀吉さん本人の移動と、先に進んだ部隊の動きを分けて見る必要があります。

大軍が移動するときは、すべての人が同じ時刻に出発し、同じ速度で進むわけではありません。先に進む部隊、本隊、荷物を運ぶ人たち、連絡役などが、それぞれ役割を分けて動き出すんです。

ここで手がかりになるのが、天正10年6月8日付の杉若無心(すぎわかむしん)書状です。この書状には、6日に秀吉さんが姫路へ馬を入れた、という趣旨の記述があるとされています。

ただし、これを秀吉さん本人と全軍が6月6日に姫路へ到着したという意味で読むと、6月5日に野殿付近まで進んでいたと読める秀吉さんの書状との関係を慎重に整理する必要があります。

そのため、6月6日姫路という記述については、先に進んだ部隊の動き、または秀吉勢の一部が姫路に入った情報として見る解釈があります。一方で、秀吉さん本人については、6月5日に野殿付近まで進み、沼城方面を経て、6月7日ごろ姫路へ入ったと見ると、複数の記録を整理しやすくなります。

つまり、6月6日姫路という情報は無視するのではなく、秀吉勢の一部、または先行して動いた部隊に関する情報として位置づけると整理しやすくなります。そう考えると、中国大返しは秀吉さん本人だけが一気に動いた行軍ではなく、先に進む部隊と本隊が段階的に動いた行軍として見えてくるんです。

中国大返しで兵糧などの物資を運ぶ小荷駄隊のイメージイラスト 作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)
中国大返しで兵糧などの物資を運ぶ小荷駄隊のAIイラスト 作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)

中国大返しの距離と日数は姫路までと山崎までを分けると整理しやすいです

ここまで見てきた6月5日野殿、沼城方面、6月7日姫路という流れを、距離と日数から整理してみます。

まず、備中高松城付近から姫路までの距離は、ルートの取り方によって差はありますが、おおむね100km前後と考えられます。この区間を一昼夜で進んだと考えると、たしかに神速行軍のように見えます。

しかし、前の節で見たように、秀吉さん本人は6月5日の時点で野殿まで進んでいた可能性があります。なので、姫路までを一昼夜ではなく、6月5日から6月7日までの約3日で進んだと見るほうが自然なんです。

次に、姫路から山崎方面までの距離も、通る道筋によって差はありますが、おおむね110km台から120kmと見ておくとよいでしょう。秀吉さんは姫路で軍勢を立て直したあと、明石、兵庫、尼崎方面を経て、山崎合戦へ向かいました。

姫路を出たのは6月9日と見られ、山崎合戦は6月13日です。姫路から山崎方面までを5日ほどで進んだと考えると、1日あたり約23km前後の移動ですよね。

備中高松城方面から山崎方面までの全体距離は、ルートの取り方によって変わります。この記事では、備中高松城方面から姫路までを約100km前後、姫路から山崎方面までを約120km、全体では約220km前後の転進として整理します。

姫路までを約3日、姫路で1日待機、軍勢を立て直して姫路から山崎方面までを5日ほどで進んだと見ると、中国大返しは全体で約9日間の速い転進として整理できます。

中国大返しは姫路で軍勢を整えたあと6月9日に山崎方面へ動き出しました

ここまで、備中高松城方面から姫路までの動きを見てきました。では、姫路に入ったあと、秀吉さんはどのように山崎合戦へ向かったのでしょうか。

秀吉さんは姫路に入ったあと、すぐに山崎へ向かったわけではありません。姫路で軍勢を整え、東へ進む体制を作ったと見られます。

姫路出発については、6月9日とする秀吉さんの書状があります。姫路入城のあとに、同九日から京都方面へ切り上がったという内容で、秀吉さんが6月9日に姫路を出て東へ向かった流れを示す手がかりになります。また、『豊鑑(とよかがみ)』にも、姫路出発を6月9日とする記述があります。

さらに、6月11日付の秀吉さんの書状からは、9日には大明石(おおあかし)方面まで進んでいたと読めます。その後、11日には尼崎(あまがさき)に着いたことが浅野文書に見え、12日には摂津方面にいたことが蓮成院記録からうかがえます。

そして6月13日、秀吉さんは山崎合戦で明智光秀さんと戦います。6月9日に姫路を出発したあと、明石、尼崎、摂津方面へ進み、山崎合戦に至った流れが確認できます。

中国大返しで姫路城から山崎へ向かうための戦略をねる羽柴秀吉のイメージイラスト 作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)
中国大返しで姫路城から山崎へ向かうための戦略をねる羽柴秀吉のAIイラスト 作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)

中国大返しは可能だった!

豊臣秀吉さんは約9日で山崎へ戻ったと考えられます

中国大返しは不可能だったのか。ここまで距離や日数を見てくると、答えは「中国大返しそのものは可能だった」と考えてよさそうです。

備中高松城付近から姫路までの距離は、ルートによって差はありますが、おおむね100km前後と考えられます。この距離を一昼夜で大軍が進んだとすると、兵、馬、武器、食料、小荷駄をともなう移動としてはかなり厳しくなります。

しかし、6月5日付の秀吉さんの書状から、秀吉さん本人はすでに野殿付近まで進み、状況しだいで沼城方面まで進む意向を示していたことが読み取れます。さらに、6月8日付の杉若無心書状をあわせて見ると、6月6日姫路という情報を秀吉勢の一部、または先行して動いた部隊の動きとして捉え、秀吉さん本人の姫路入りを6月7日ごろと見る解釈が成り立ちます。

この流れで見ると、備中高松城方面から姫路までは一昼夜ではなく、6月5日から6月7日ごろまでの約3日で進んだ可能性が高くなります。約100km前後を約3日で進んだとすると、1日あたり約30km台になります。速い行軍ではありますが、一昼夜で100km前後を大軍が移動したと見るよりは、現実的に考えやすい数字です。

姫路から先は、6月9日に姫路を出発した記録があり、その後、明石、尼崎、摂津方面へ進み、6月13日の山崎合戦に至った流れが確認できます。姫路から山崎方面までの距離を約120kmと見ると、5日ほどで進んだ場合、1日あたり約24kmの移動になります。

備中高松城方面から山崎方面までの全体距離は、ルートの取り方によって変わりますが、約220kmの転進とします。全体を約9日で進んだと見ると、1日あたりの平均移動距離はおおむね約24kmで、8日で進軍したとすると約28kmになります。かなり速い行軍だったことは間違いありませんが、講和、撤収、先行部隊の移動、姫路での軍勢再編を組み合わせて考えれば、不可能とまでは言い切れません。

つまり、中国大返しの真相は、講和、撤収、先遣隊の移動、姫路での立て直しを組み合わせた速い転進として見るほうが納得しやすいです。史料に残る日付と距離を追うと、秀吉さんがどうやって山崎合戦に間に合ったのかが見えてきます。