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2026.06.01

織田信長と伊勢長島一向一揆の激闘!火攻めと切り捨ての凄惨な戦いの結末を徹底解説

今回は織田信長(おだのぶなが)さんと伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)の激しい戦いを見ていきます。 信長さんによる伊勢湾岸や木曽三川河口の支配拡大と、願証寺(がんしょうじ)を中心に自治や信仰、生活の場を守ろうとした長島門徒たちが正面から衝突した戦いなんです。 一向一揆はなぜ起きたのかという背景から、複雑な地形を利用して信長さんを苦しめた3度にわたる合戦の経過、そして多くの命が失われた残酷な結末まで、当時の出来事を順番に紐解いていきますね。

-・- 目次 -・-
  • 織田信長さんが激しく対立した伊勢長島一向一揆の全体像
    • 一向一揆とは本願寺の信仰を核に農民や武士が団結して形成した強力な自衛組織のことです
    • 一向一揆はなぜ起きたのかというと重税や特権侵害だけでなく地域支配や信仰をめぐる対立が重なったからです
    • 独自の自治空間と重要な物流拠点を織田信長さんから防衛することが長島での一向一揆の目的なんです
  • 織田信長さんが伊勢長島一向一揆と合戦をするに至る経緯と激しい戦いの経過
    • 弟の自害や流通の要衝を奪い返すことが織田信長さんを合戦へと向かわせた経緯です
    • 第1次と第2次の長島合戦では一向一揆側が織田軍を撃退しました
    • 水陸からの封鎖と徹底した兵糧攻めを行った第3次の長島合戦で織田軍は勝利を収めました
  • 織田信長さんが伊勢長島一向一揆を鎮圧した残酷な合戦と石山合戦への多大な影響
    • 退去を認められた門徒たちへの追撃と残酷な火攻めによって長島の自治は崩壊しました
    • 長島を失っても本願寺の抵抗は終わらず石山合戦はその後も続いたんです

織田信長と伊勢長島一向一揆のイメージ画像 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
織田信長と伊勢長島一向一揆 AIによるイメージ画像 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

織田信長さんが激しく対立した伊勢長島一向一揆の全体像

一向一揆とは本願寺の信仰を核に農民や武士が団結して形成した強力な自衛組織のことです

一向一揆という言葉を聞くと、農民たちが竹槍を持ってバラバラに暴れているイメージを持つかもしれませんね。でも、その姿はもっと組織的で強力な集団だったんです。

その中心にあったのは、浄土真宗(じょうどしんしゅう)という仏教の信仰です。阿弥陀如来(あみだにょらい)を信じる門徒さんたちが、仏様の前では誰もが平等であるという教えのもとに、固い絆で結ばれていました。参加していたのは農民だけでなく、地元の武士や商人たちも含まれていて、自分たちの暮らしや信仰を守るための立派な自衛組織として機能していたんですね。

特に伊勢長島では、本願寺の蓮如(れんにょ)さんの息子である蓮淳(れんじゅん)さんが開いた願証寺というお寺が中心となっていました。このお寺を拠点にして、戦国大名の支配を受けない独自の自治が行われていたのだそうです。

願証寺を開いた蓮淳(れんじゅん)のイメージイラスト(作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
願証寺を開いた蓮淳のイメージイラスト(生成AI)作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

一向一揆はなぜ起きたのかというと重税や特権侵害だけでなく地域支配や信仰をめぐる対立が重なったからです

一向一揆が起きた理由は、地域によって違いがあります。戦国時代になると、大名たちは領国の支配を強化するために年貢や兵糧(ひょうろう)を求め、寺院や門徒たちが持っていた権益にも関わろうとするようになりました。

さらに、お寺が持っていた税の免除や、大名の役人が簡単には立ち入れない不入の権(ふにゅうのけん)などが圧迫されることもありました。

こうした経済的な負担や寺院の権益をめぐる対立に、本願寺門徒の強い結びつきが加わり、各地で武力をともなう抵抗へ発展していったんですね。

大名からすれば自分たちの支配を妨げる反乱に見えますが、門徒たちからすれば自分たちの暮らしや財産、そして心の支えである信仰を守るための必死の抵抗でもあったのだそうです。

伊勢長島一向一揆の拠点となった願証寺のイメージ画像 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
伊勢長島一向一揆の拠点となった願証寺のイメージ画像(生成AI)作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

独自の自治空間と重要な物流拠点を織田信長さんから防衛することが長島での一向一揆の目的なんです

長島がどうしてそこまで必死に戦ったのか、その目的を詳しく見ていきましょう。伊勢長島は木曽三川(きそさんせん)と呼ばれる大きな川に囲まれた輪中(わじゅう)という独特の地形で、川を使った物流の要衝でもありました。

ここを押さえることは、伊勢湾岸や木曽三川を使った人や物の流れを管理するうえで、とても重要な意味を持っていました。織田信長さんは勢力を広げるためにこの場所を自分の支配下に置きたかったのですが、長島の人たちは願証寺を中心に、自分たちの手で町を治める自由を守ろうとしました。

つまり、信長さんの支配を受け入れず、願証寺を中心とした自治や信仰、そして木曽三川河口の交通・物流に関わる生活基盤を守ることが、長島の人々にとって大きな目的だったと考えられます。宗教上の対立だけでなく、地域の支配や物流の拠点をめぐる争いでもあったというわけなんですね。

伊勢長島は木曽三川に囲まれた輪中で川を使った物流の要衝 イメージ画像 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
伊勢長島は木曽三川に囲まれた物流の要衝 AIによるイメージ画像 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

織田信長さんが伊勢長島一向一揆と合戦をするに至る経緯と激しい戦いの経過

弟の自害や流通の要衝を奪い返すことが織田信長さんを合戦へと向かわせた経緯です

織田信長さんがどうしてこれほどまでに長島を激しく攻めたのか、そこには深い因縁と戦略的な理由があったんです。大きなきっかけは、元亀(げんき)元年(1570年)に石山本願寺(いしやまほんがんじ)が信長さんに対して兵を挙げ、長島の一向一揆もそれに呼応して動いたことでした。

このころ信長さんは、石山本願寺だけでなく、近江の浅井長政(あざいながまさ)さんや越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)さんとも戦っていました。各方面で戦いを抱えていたため、尾張や伊勢方面の守りにも大きな負担がかかっていたと考えられます。長島の一揆勢は、そうした状況の中で信長さんに敵対する動きを強めていったんです。

そして、信長さんの弟である織田信興(のぶおき)さんが守っていた小木江城(こきえじょう)を一揆勢が包囲しました。小木江城は尾張と伊勢の境に近い重要な城でしたが、信興さんは一揆勢に追い詰められ、力尽きて自害に追い込まれてしまったんです。自分の身内を死に追いやられた信長さんの怒りは相当なものだったはずです。

それに加えて、長島は信長さんの本拠地である尾張に近く、伊勢湾や木曽三川の水運にも関わる重要な場所でした。ここを一揆勢に押さえられていると、伊勢方面への進出や物資の輸送にも大きな支障が出てしまいます。

本願寺の挙兵に呼応した長島一向一揆の動き、弟・信興さんの自害、そして伊勢湾岸の重要拠点を押さえるという軍事的な必要性。こうした要因が重なったことで、信長さんは長島への大規模な攻撃に踏み切ったのです。

小木江城の落城と自刃する織田信興のイメージイラスト 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
小木江城の落城と自刃する織田信興のイメージイラスト(生成AI) 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

第1次と第2次の長島合戦では一向一揆側が織田軍を撃退しました

第1次の侵攻は元亀2年(1571年)に行われました。信長さんは北と西の二方向から攻め込みましたが、長島は川や沼に囲まれた湿地帯(しっちたい)で、大きな軍勢が自由に動くのが難しかったんです。

一揆勢は撤退する織田軍を待ち伏せし、弓や鉄砲で攻撃しました。この時、殿(しんがり)を務めていた柴田勝家(しばたかついえ)さんが負傷し、その勝家さんに代わって殿を務めた氏家卜全(うじいえぼくぜん)さんが、家臣たちとともに討ち死にしてしまったのだそうです。

続く天正(てんしょう)元年(1573年)の第2次合戦でも、信長さんは苦戦を強いられました。織田軍は北伊勢方面で一定の成果をあげましたが、長島の一揆勢を完全に崩すことはできなかったんですね。

さらに撤退の場面では、一揆勢の追撃によって織田方に大きな損害が出ました。第1次、第2次と続けて長島を攻略しきれなかった経験が、次の第3次侵攻で水陸から封鎖する大規模な作戦につながっていくことになります。

第1次長島侵攻で討死にした氏家卜全のイメージイラスト 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
第1次長島侵攻で討死にした氏家卜全のイメージイラスト(生成AI)作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

水陸からの封鎖と徹底した兵糧攻めを行った第3次の長島合戦で織田軍は勝利を収めました

天正2年(1574年)に行われた第3次の合戦では、信長さんはこれまでの失敗を教訓にして、大規模な軍勢で長島を包囲しました。陸上からは織田軍の主力部隊が進み、海上からは九鬼嘉隆(くきよしたか)さんらの水軍が安宅船(あたけぶね)や多くの軍船を率いて加わりました。こうして信長さんは、長島を水陸の両方から攻める体制を整えたんです。

信長さんは陸上の部隊を複数の方面に分けて進軍させました。市江口には息子の織田信忠(のぶただ)さんらの軍勢、賀鳥口には柴田勝家さんや佐久間信盛(さくまのぶもり)さんらの軍勢が向かい、信長さん自身は早尾口から攻撃を行いました。この早尾口の先陣の中に、丹羽長秀(にわながひで)さんらとともに、木下小一郎(きのしたこいちろう)さんの名も見えます。

木下小一郎さんは、のちの豊臣秀長(とよとみひでなが)さんです。兄の秀吉さんがこの第3次長島侵攻に加わっていた形跡ははっきり確認できませんが、弟の小一郎さんが織田軍の一員として参加していたことは確認できます。『信長公記』には、木下小一郎さんが早尾口の先陣として参戦していたこと、さらに篠橋砦の一揆勢への対応にも関わったことが記されています。

海上からは九鬼嘉隆さんらの軍船が長島を囲む川や海上を押さえ、陸上からは織田軍が各方面から攻め込みました。その結果、一揆勢は各地の拠点を失い、長島・屋長島(やながしま)・中江(なかえ)・篠橋(しのはし)・大鳥居(おおとりい)などの城や砦に追い込まれていったんです。

この過程で、大鳥居の砦に立てこもっていた一揆勢が、風雨に紛れて逃れようとした場面もありました。『信長公記』には、これを織田軍が追撃し、男女千人ほどを斬り捨てたと記されています。長島攻めが、包囲だけでなく、逃げようとする人々への厳しい追撃をともなう過酷な戦いだったことがわかります。

信長さんは、これまでのように無理に正面から攻め続けるのではなく、包囲を強めて食料の補給を断つ兵糧攻めを行いました。長島は川や海に囲まれた地形を強みとしていましたが、第3次の合戦では、その水上交通を織田方に押さえられたことで、逆に外部との連絡や補給が難しくなっていったんですね。

長く包囲された一揆勢は、しだいに食料を失い、飢えに苦しむ状況へ追い込まれていきました。こうして、これまで信長さんを何度も苦しめてきた長島の本願寺勢力は、第3次の合戦でついに大きく崩れることになったんです。

伊勢長島一向一揆で大鳥居の砦に立てこもっていた一揆勢が風雨に紛れて逃れる場面 イメージ画像 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
一揆勢が風雨に紛れて逃れる場面 AIによるイメージ画像 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

織田信長さんが伊勢長島一向一揆を鎮圧した残酷な合戦と石山合戦への多大な影響

退去を認められた門徒たちへの追撃と残酷な火攻めによって長島の自治は崩壊しました

天正2年9月、数か月にわたる兵糧攻めによって餓死者が続出し、追い詰められた長島の人たちはついに降伏を申し出ました。信長さんは一度は船での退去を認めましたが、門徒さんたちが城を出て船に乗り込んだところを追撃させたと伝えられています。

このとき、一揆勢も激しく反撃し、信長さんの叔父である織田信次(のぶつぐ)さんや、庶兄の織田信広(のぶひろ)さんなど、織田一族にも大きな犠牲が出ました。

信長さんは、一揆勢が籠城していた中江と屋長島の砦の周囲を何重もの柵で厳重に囲み、四方から火を放ちました。この火攻めによって、砦の中にいた多数の男女が逃げ場を失い、焼死したと伝えられています。

『信長公記』の記述では二万人余ともされますが、正確な人数は確認が難しく、史料上の数字には慎重さも必要です。こうして長島の自治は失われ、信長さんの勢力下に組み込まれていくことになりました。

織田信長による伊勢長島一向一揆の鎮圧 火攻めを受ける一向宗門徒のイメージイラスト 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
織田信長による伊勢長島一向一揆の鎮圧 火攻めを受ける一向宗門徒のイメージイラスト(生成AI)作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

長島を失っても本願寺の抵抗は終わらず石山合戦はその後も続いたんです

長島という重要な拠点を失ったことは、本願寺側にとって大きな痛手でした。信長さんにとっては、尾張に近い不安定要素を取り除き、伊勢方面への支配を進めるうえで大きな前進となりました。一方の本願寺側にとっては、伊勢・尾張方面での有力な拠点を失うことになったんです。

長島の一向一揆は鎮圧されましたが、本願寺の抵抗そのものは終わりませんでした。石山本願寺を中心とする戦いは続いており、長島の壊滅は、信長さんと本願寺の長い対立の中で起きた大きな転機の一つだったと考えると流れを理解しやすくなります。

その後も信長さんと本願寺の対立は収まらず、天正8年(1580年)に石山本願寺が退去するまで、長期にわたる戦いが続いていくことになります。