織田信長(おだのぶなが)さんは永禄(えいろく)11年に、足利義昭(あしかがよしあき)さんを室町幕府の将軍にするため、軍勢を率いて京都へ上洛(じょうらく)したんですね。この記事では、上洛した信長さんが京都の治安や政務を立て直すために、木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)さんや村井貞勝(むらいさだかつ)さんら複数の奉行人を通じて進めた京都支配の実態や、自治都市である堺を治めていた会合衆(えごうしゅう)への矢銭(やせん)2万貫の要求など、当時の緊迫したやり取りをわかりやすく解説していきますね。この記事を読むだけで、信長さんが武力だけでなく、行政や経済への圧力も用いながら地域の統治を固めていった過程がしっかりとわかりますよ!
-
織田信長さんの京都上洛と周辺の自治都市への強い圧力
-
堀で防衛を固めて豪商の会合衆が治めていた自治都市の堺
-
武家権力と結びついて周辺地域の支配を認められた今井宗久さんの存在
-
莫大な軍用金として堺の町に要求された二万貫の矢銭
-
織田信長さんによる京都統治を支えた実務の仕組み
-
治安維持や朝廷の修理など幅広い行政を担った京都奉行の活躍

織田信長さんの京都上洛と周辺の自治都市への強い圧力
堀で防衛を固めて豪商の会合衆が治めていた自治都市の堺
当時の堺は、特定の武将の支配を受けず、自分たちで町を運営する自治都市(じちとし)だったんです。町の周りには深い環濠(かんごう)と呼ばれる堀をめぐらせて、外からの敵の侵入をしっかりと防いでいたんですね。
そんな強固な堺の町で政治を行っていたのが、会合衆や納屋衆(なやしゅう)と呼ばれる大商人たちなんですよ。彼らは豊富な資金力を持っていて、町を守るためのルールを決めたり、外交交渉を行ったりしていました。
会合衆の人数については「36人だった」という説もあるのですが、残されている記録をたどると基本的には10人だった可能性が高いのだそうです。
天正2年に信長さんが堺の有力者を招いてお茶会を開いた記録があるのですが、そのときの名簿に載っている10人が、当時の会合衆だったと考えられているんです。
決まった役人の組織というよりも、その時々で力を持つ代表者が集まって政治的な交渉をして町を動かしていたんですね。どう思いますか?大商人たちが自分たちの力で町を守り抜くなんて、すごくたくましいですよね。

武家権力と結びついて周辺地域の支配を認められた今井宗久さんの存在
そんな堺の大商人の中でも、とくに有名なのが今井宗久(いまいそうきゅう)さんです。宗久さんは、信長さんが上洛した直後の永禄11年に陣営を訪れて、名物と呼ばれる素晴らしい茶器をプレゼントしているんですよ。早い段階から新しい権力者とのパイプをしっかりと作っていたんですね。
さらに翌年の永禄12年には、将軍の義昭さんと信長さんから、五箇荘(ごかしょう)に関する知行(ちぎょう)を認められるお墨付きをもらっているんです。これは商売の権利を与えられたというだけではなく、五箇荘の寺社や本所領(ほんじょりょう)に関わる支配や、塩合物過料銭(しおあいものかりょうせん)の徴収に関わるような、代官に近い権限を担ったことを示しているんですよ。
商業都市の有力者が大きな権力に組み込まれながら、地域を支配する仕組みの一部になっていく過程がよくわかりますよね。

莫大な軍用金として堺の町に要求された二万貫の矢銭
信長さんは上洛したあとの永禄11年の秋に、堺の町に対して矢銭2万貫を要求しました。矢銭というのは、戦国時代の武将が軍用金として課したお金のことなんです。
2万貫ってどれくらいの金額か気になりますよね。当時の物価で計算してみると、お米で約4万石(こく)、重さにすると約6000トンにもなるんです。昔と今ではお金の価値が違うので比較は難しいのですが、お米の値段で大まかに計算してみますね。
少し前のお米の値段である5キロ2000円を基準にすると約24億円、最近の価格高騰に合わせた5キロ4000円で計算すると約48億円になるんですよ。信長さんは軍隊を維持するためのお金を集めると同時に、堺の町を政治的に服従させようとする狙いがあったのだそうです。
でも、自分たちで町を治めていた堺の人たちは、はじめはこの要求を拒否したんです。そして町を守るために城楼(じょうろう)を建てたり、堀を深く掘ったりして、信長さんと戦うための防衛態勢をとって抵抗したんですね。
平和だった商人の町が、一気に緊迫した空気になってしまったことが想像できますよね。しかし、最終的に堺は要求を受け入れて信長さんに陳謝し、以後は段階的に信長さんの支配が浸透していくことになったんです。
織田信長さんによる京都統治を支えた実務の仕組み
治安維持や朝廷の修理など幅広い行政を担った京都奉行の活躍
信長さんが上洛した直後は、まだ決まった役人がいたわけではなくて、5000人ほどの軍隊とともに残った武将たちが、交代や共同で京都の治安維持や行政を行っていたんですね 。
とくに初期の統治では、豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)さんをはじめ、柴田勝家(しばたかついえ)さん、丹羽長秀(にわながひで)さん、明智光秀(あけちみつひで)さん、村井貞勝さん、中川重政(なかがわしげまさ)さんらが、信長さんの奉行人として京都の政務に関わっていたんですよ。
秀吉さんは、もめごとの裁定や火事に関わる調査など、京都支配の実務に深く関わっていたことがうかがえるんです。こうした奉行人たちは、軍事だけでなく政治や行政の面でも信長さんの支配を支えていたんです。

でも、彼らのような武将たちは戦いが激しくなると最前線へ出陣しなければなりませんよね。そのため京都支配は、固定化した一つの制度として最初から整っていたというより、時期に応じて村井貞勝さんや明智光秀さんらが中心となり、複数の奉行人が分担しながら運営されていったと考えた方が実態に近いんです。
貞勝さんたちは町人のルールを決めるだけでなく、朝山日乗(あさやまにちじょう)さんと一緒に荒れ果てていた朝廷(ちょうてい)の建物を修理する大仕事も任されました 。
天皇が住む場所をきれいに直すことで、自分たちの支配が正しいものだとアピールする狙いがあったんですね 。戦国武将たちが戦いだけでなく、細かい行政の仕事まで協力してこなしていたなんて、なんだか親近感が湧きませんか?
