日本社会には、武士とよばれた職業戦士による支配がおよそ700年間も続いた特異な歴史があります。図録のごあいさつでは、東アジア諸国のなかで職業戦士が政治の実権を長期にわたり担った点を、日本史の特色として位置づけています。本書は、なぜ日本社会が武士を支配者として受容したのかという根源的な問いに対し、地域に生きた武士団の領主としての姿から迫ります。石見益田氏、肥前千葉氏、越後和田氏などの事例を通じ、彼らがどのように地域に定着し、統治者へと変容していったのかを多角的に描き出しています。
- 企画展「中世武士団 地域に生きた武家の領主」
- 武士と武士団
- 図録の見どころ
- 鎌倉時代の屋敷が持つ開放的な構造
- 南北朝内乱と本拠の要塞化
- 治者としての自覚と撫民の思想
- 図録の詳細と読後の感想
- 図録情報
- 図録 目次
- 図録を読み終えて

企画展「中世武士団 地域に生きた武家の領主」
文献と考古の最新知見を統合し、地域領主としての武士の実像を多角的に検証した資料です。
武士と武士団
中世の武士は、戦いの技能を家で受け継ぐ職業戦士で、その成立には平安時代初期の軍事制度の変化が関わったとされます。律令制のもとでは一般農民を動員する軍団制が想定されていましたが、しだいに機能しにくくなると、政府は武芸に長けた少数精鋭の軍事力を活用する方向へ転じました。
その流れの中で、弓馬の術などの軍事技術を家の技能として身につけた、武芸に秀でた官人が登場します。彼らは宮廷の警護や地方の治安維持を担い、武力を担う公的な専門職としての立場を固めていきました。
武士団が形づくられていく過程には、土地の開発と血縁の結びつきが深く関わっています。10世紀以降、地方で土地開発を進めた開発領主たちは、自らの権利を守るために武装を強めました。彼らは一族の長である惣領(そうりょう)を中心に、弟や親類である庶子をまとめ、強い結束を保ちます。
さらに、中央から地方へ下向した清和源氏や桓武平氏といった貴種がリーダーとして仰がれると、血縁だけではない主従関係のつながりも広がり、より大きな武士団へと組織化されていきました。
こうして成立した武士は、馬上から弓を射る騎射を得意としたことから、弓箭取(ゆみやとり)や弓馬の士と呼ばれました。土地をめぐる争いでは実力行使も辞さない一方で、王朝国家の枠組みの中で軍事力を提供し、社会的な地位を確かなものにしていきます。
また、当時の武士団は特定の土地に閉じこもる存在ではありませんでした。将軍や京都の貴族との主従関係を保つため、鎌倉や京都にも拠点を置き、都市での生活も営んでいました。各地に分散する所領を経営するため広域的に移動し、多層的なネットワークを築いていた点も、中世武士団を理解するうえで欠かせません。
そして彼らは軍事力だけでなく、土地境界や水利を巡る紛争を解決に導く「裁定者」としての能力が、戦士という枠組みから、地域を実効支配する領主へと成長させる要因となりました。武力による秩序の維持と、地域に根ざした統治者としての役割が、日本社会において武士が支配者として定着していく背景となったのです。
図録の見どころ
鎌倉時代の屋敷が持つ開放的な構造
本書では、鎌倉時代の武士の住まいについて、呼称と構造の観点から分析を行っています。かつては高い土塁と深い堀に囲まれた方形館(ほうけいかん)が武士の居館の典型と考えられてきましたが、近年の発掘調査によって、そうした軍事的な構造の多くは15世紀から16世紀の所産であることが判明しました。
12世紀から13世紀の遺構に確認されるのは、溝によって区画されただけの開放的な空間であり、軍事施設としての色彩は薄いものでした。したがって、鎌倉時代の武士の屋敷を軍事施設ととらえることは難しく、戦国時代の城館へと発展していくという図式は成り立たなくなっています。
文献資料において当時の住まいが「館」ではなく「屋敷」と表現されている事実は、そこが日常生活や所領支配の拠点としての性格を強く持っていたことを示唆しています。
『一遍聖絵』などの絵画史料に見える板塀や細い溝の描写は、過度な警備よりも生活の場としてのあり方を伝えています。武士の屋敷がどのような変遷を経て城郭へと発展していったのか、その定説を覆す知見が考古学的な証拠とともに提示されています。
南北朝内乱と本拠の要塞化
14世紀に勃発した南北朝内乱は、武士の本拠のあり方を大きく変容させました。半世紀近くに及ぶ断続的な戦乱は、それまで開放的だった屋敷に防御のための柵や塀を設けさせ、要塞化を促しました。これが後に定型化する防御性の高い城館へと繋がっていくことになります。同時に、自然の地形を利した「山城」も急速に普及しました。
当時の山城は、大規模な土木普請を伴うものではなく、尾根が細くなった「尾頭」などの地形を利用した臨時的な拠点としての性格が強いものでした。
山城には長期間の籠城に必要なインフラが不足していたため、しばしば既存の山林寺院が城として転用されたという指摘も、当時の実情を物語るものです。屋敷の改修から始まり、自然地形への依拠、そして寺院の転用へと至る「武装化」の過程。戦乱が地域の風景や武士の拠点にどのような変化をもたらしたのかが、軍事文書の用語分析とあわせて詳述されています。
治者としての自覚と撫民の思想
職業戦士であった武士団が、地域支配の正当性を獲得していく過程も本書の重要な論点です。
武士たちは、地域社会の安穏を祈る宗教者集団と接触することで、民を憐れみ慈しむ「撫民(ぶみん)」という統治思想を学びました。寺社の創建や保護、祭礼の警護といった活動を通じて、自らも社会救済に参画する姿勢を示すことが、民衆から領主としての地位を受容される鍵となりました。
殺生を日常とする戦士としての現実と、救済を重んじる治者としての理想の狭間で、彼らはいかにして領主支配を正当化したのか。石見益田氏が残した古文書や宗教的な活動の記録からは、暴力の行使者から秩序の維持者へと脱皮しようとする武士たちの葛藤が読み取れます。
武士が日本社会に定着し、長期にわたる支配を実現した背景にある精神的な変容を、具体的な資料から考察できる章となっています。
図録の詳細と読後の感想
図録情報
| 図録名 | 企画展「中世武士団 地域に生きた武家の領主」 |
|---|---|
| 発行 | 国立歴史民俗博物館 |
| 発行日 | 2022年3月15日 |
| ページ数 | 184ページ |
| 価格 | 2,200円 |
図録 目次
図録を読み終えて
本書では、文献学的なアプローチと発掘調査の成果を照らし合わせ、通説としての武士像を再構築していく構成です。
共同研究の成果を裏付ける一次史料が収録されており、石見益田氏に関する益田兼季申状(ますだかねすえもうしじょう)、御神本系図(みかもとけいず)、尼阿忍譲状(あまあにんゆずりじょう)、尼阿忍置文(あまあにんおきぶみ)、浄阿寄進状(じょうあきしんじょう)、北条重時書状(ほうじょうしげときしょじょう)、益田兼理置文(ますだかねただおきぶみ)、禅幸等連署起請文(ぜんこうとうれんしょきしょうもん)といった重要史料が、釈文とともに掲載されています。
全20項目のコラムや多岐にわたる資料群は、地域に生きた武士団の思考や行動原理を読み解くための証拠となります。
鎌倉時代の開放的な屋敷が南北朝の戦乱を経て要塞へと変貌していく歴史の動向を、具体的な遺物や絵図から体系的に理解できる点も本書の特色です。
益田氏や千葉氏といった地域領主の港湾支配から信仰、さらには山野の利活用や水利慣行にいたるまでを網羅しており、中世社会の構造を把握できます。武士がどのように地域に根ざし、領域的な支配を確立していったのか。その起点を実証的に知るための資料が提示されています。
図録には、展示プロジェクトの核となった史料の釈文が掲載されています。会場で目にした原本の筆致を思い浮かべながら、その内容をじっくりと読み解くことで、中世武士の思考により深く迫ることができるでしょう。
最新の考古学成果を反映した中世史の研究動向を把握するのに最適です。従来のイメージを更新する知見が整理されており、地域史や武家社会の構造に関心がある方にとって、有益な導入書となるはずです。
おすすめしたいのは、次のような人です。
- 京都や鎌倉といった都市と地方を往来し、列島規模で展開した武士の広域的な活動実態を知りたい人
- 日本海航路の港湾支配や、唐船を通じた海外との流通が地域社会へ浸透していく過程を学びたい人
- 石見益田氏や肥前千葉氏など、特定の武士団が継承してきた申状、起請文、系図といった一次史料の具体例に触れたい人
- 山野の利活用や水利灌漑、あるいは特定の宗派への信仰といった、武士の多角的な生活基盤をコラムを含めて詳しく追いたい人
- 文献、考古、民俗、歴史地理、美術などの専門領域を横断して進められた、地域総合調査の手法に関心がある人

