展示図録の概要を知ってから購入したい方へ。名古屋市博物館・サントリーミュージアム・東武美術館「日本の心 富士の美」展図録を読み、平安時代から昭和までの富士山表現の移ろいと、「富士を讃える、富士を描く」「富士をまとう」「江戸と富士・日本の富士」など注目ポイントを読後の感想つきで紹介します。
- 日本人と富士山
- 富士山はどうしてめでたいの?
- 図録の見どころ
- 富士を讃える、富士を描く
- 富士をまとう
- 江戸と富士・日本の富士
- 図録情報
- 図録 目次
- 図録を読み終えて

日本人と富士山
交通が未発達で直接富士を見る機会が限られていた時代、人々は和歌や物語を通じて東国にある高い山への憧れを募らせていました。やがて往来が盛んになり、その雄姿を実際に目にするようになると、憧憬は畏敬の念や信仰、力強さの象徴へと変化していきます。
こうした心情の移ろいは、絵画や工芸、意匠といった芸術分野に色濃く反映されていきました。人々の熱い想いが多彩なデザインを生み出し、それらの作品が富士への崇敬をより一層高めていく。この相互作用こそが、物理的な数値を超えた「心の高さ」としての日本一を築き上げたのでしょう。
本図録は、多岐にわたる芸術作品を通じて、富士山が日本人にとっていかなる存在であったかを問いかけるものです。収録された作品群からは、日本人が富士といかに向き合い、心を寄せてきたかという精神の軌跡をたどることができます。
富士山はどうしてめでたいの?
富士山が古来より吉兆の象徴とされるのには、いくつかの理由が重なっています。まず挙げられるのは言葉の響き。「ふじ」の響きが「不死」や「無事」を連想させるとして、縁起のよい言葉遊びと結びつけて語られてきました。
視覚的な特徴も欠かせません。山頂から裾野へとなだらかに伸びるその姿は、いわゆる「末広がり」。土台が安定し、先へ行くほど開けていく形状は、子孫繁栄や商売の発展を連想させます。
さらに、天に最も近い日本一の高さを誇る霊峰としての側面も見逃せません。本図録の解説によれば、平安時代に記された『富士山記』には、すでに富士が国内で最も高い山であるとの記述が見られるとのこと。
近代的な測量技術がない時代から、人々は直感的にその別格さを感じ取っていたのでしょう。そうした畏敬の念が、後の江戸時代における庶民信仰の流行へとつながり、夢に見るだけで幸運とされるほどの憧れの対象となっていったのです。
言葉の響き、美しい形状、そして歴史的に裏付けられた高さへの畏敬。これらが渾然一体となり、富士山は比類なき「めでたい山」として日本人の心に定着したと言えます。
図録の見どころ
富士を讃える、富士を描く
図録の解説によれば、富士山を単独で描いた作品が登場するのは室町時代からだそうです。「富士を讃える」「富士を描く」の章では、平安時代から江戸時代にかけて、和歌や絵画に表された富士の姿が69点紹介されています。
絵画の魅力は図録でじっくり味わっていただくとして、ここでは、平安時代の貴族たちが富士山をどのように受け止めていたのかに焦点を当てます。万葉集、伊勢物語、更科日記といった資料に加え、図録の作品解説も手がかりにしながら、私なりの解釈を交えて読み解いていきます。
平安時代の富士山は、都に暮らす人々にとって、身近な行楽地や気軽に参拝できる山というより、日常の秩序からはみ出すほど大きく、遠く、畏れを伴う霊峰として意識されていました。その姿は実際に見に行く機会が限られていたからこそ、歌や物語の言葉によって共有され、日本の風景と精神世界の境界を示す象徴になっていきます。
万葉集の山部赤人(やまべのあかひと)の長歌では、富士は天地が分かれた太古から神さびて高く貴い山と語られ、太陽や月の光さえ頂に隠れ、白雲も行きはばかり、雪が絶えず降ると描写されます。ここで示されているのは、ある土地の名所というより、日本列島の外縁に屹立する絶対的な高みであり、語り継ぎ言ひ継ぎ行かむと結ばれることで、共同体が受け継ぐべき霊峰として位置づけられています。
その後の平安文学では、富士は東国へ向かう道の途中で出会う、常識を揺さぶる存在として描かれます。伊勢物語の東下りでは、富士を見れば五月のつごもりに雪が白く降り積もっているとされ、時知らぬ山は富士の嶺と詠まれます。さらに比叡の山を二十ばかり重ね上げたほどだと、都の人にも伝わる物差しに置き換えて巨大さが説明されます。富士は季節の約束を外れ、都の尺度に収まりきらない山として、東国の異質さとともに提示されているのです。
更級日記では、この感覚がいっそう具体的になります。作者は帰京の旅で駿河に入り、富士を見上げますが、その山のさまは世に見えぬさまだと言い、山肌を紺青を塗ったように見立て、雪が消えずに積もり、頂の少し平らなところから煙が立ちのぼり、夕暮れには火の燃え立つのも見えると記します。美しさと不穏さが同じ画面に同居し、富士が現実の風景でありながら、現実離れした力を帯びる山として受け取られていたことが伝わります。
さらに更級日記は、富士をめぐる語りが人の運命にも接続していたことを示します。富士川のほとりで土地の人から不思議な話を聞きます。川上から流れてきた紙に朱で翌年の国司交替が除目のように書かれており、その通りに任命が行われたと語られます。富士の山に神々が集まって国司を定めるのだという結びは、富士が自然の驚異であると同時に、見えない決定が下される場所として想像されていたことを物語ります。
一方で、都の歌の世界では、富士は次第に言葉の中で扱いやすい象徴へと洗練されていきます。古今和歌集の仮名序には、富士の煙によそへて人をこふという趣旨が示され、富士の煙は、胸の内に燃える思いを託す媒体になります。ここでは、富士は到達すべき山ではなく、遠くに立ちのぼる煙として都の感情生活に組み込まれていきます。
これらをまとめると、平安時代の富士山は、日本人の中でもとくに都の教養層にとって、遠くにありながら国家規模の神聖さを帯び、季節や尺度を超えて人を圧倒し、噴煙や火の気配と結びつく畏れを含んだ霊峰でした。
そして、その圧倒的な遠さゆえに、多くの人が実際に富士を見に行くのではなく、万葉集の賛歌、『伊勢物語』の東下りの驚きの語り、更級日記の実見の記録、和歌における比喩表現といった言葉を通して富士を共有していきます。その結果、富士は、遠くにあるのに誰もが知っている特別な山として、都の社会に共通のイメージを形づくっていったと言えるでしょう。
富士をまとう
「富士をまとう」の章では、富士山をモチーフにした工芸品が20点収録されています。図録の解説によれば、室町時代にはあまり見られない富士モチーフの工芸品が、桃山時代になると意匠として用いられるようになってくるそうです。
富士山は、遠くから仰ぎ見る霊峰という存在にとどまらず、武将たちの衣装や武具、身の回りの品へと取り入れられ、目に見えるかたちで身近な意匠になっていったことがわかります。
中でも目を引くのが、大阪城天守閣に伝来し、伝豊臣秀吉所用とされる「富士御神火文黒黄羅紗陣羽織(ふじごじんかもんくろきらしゃじんばおり)」です。黒地に黄色い富士という大胆な配色が強烈で、華やかさに惹きつけられます。南蛮風の衣装は信長を連想しますが、これが秀吉のものだとすれば、彼も南蛮趣味を好んだことがうかがえます。
江戸時代の工芸品も見応えがあります。「東海道五十三次図蒔絵印籠(とうかいどうごじゅうさんつぎずまきえいんろう)」や「富士松原図蒔絵櫛・笄(ふじまつばらずまきえくしこうがい)」をはじめ、蒔絵の印籠や櫛、打掛など、ため息が出るほど美しい品々が並びます。富士のモチーフと蒔絵のきらめきは相性がよく、改めてその組み合わせの強さを感じました。
さらに江戸時代後期になると、櫛と笄を同じ図柄や材質で作る揃物(そろいもの)が登場するそうです。図録に掲載されている「富士図櫛・笄・印籠・帯留(ふじずくしこうがいいんろうおびどめ)」のセットを見ると、これを一式で身に着けていた人がいたのだろうか、と想像がふくらみます。実際にそうだとしたら、相当なこだわりとセンスの持ち主だったはずです。
この章で紹介されている工芸品は他の章に比べると点数は多くありませんが、どれも見応えのある作品ばかりです。気になった方は、図録で確かめてみてください。
江戸と富士・日本の富士
「江戸と富士」「日本の富士」の章には、江戸時代から昭和まで82点の作品が紹介されています。江戸時代以降、富士山は人々にとって、信仰の山であると同時に、見る山、登る山、そして国の象徴へと役割を重ねていきます。
江戸の町では、晴れた日に市中から富士山を望められる場所があり、そこに長い平和による旅の広がりと、富士講や富士塚の活動、名所絵や名所案内の流通が重なったことで、富士は見える山から、江戸の文化を象徴する山へと強く結びついていきます。
富士講は、富士山に登りたい庶民が、講と呼ばれる仲間の集団をつくって登拝に出かけるしくみでした。山麓では、受け入れ役の御師(おし)が宿泊の手配や祈りの作法、祈祷などを担い、登山そのものは経験者の先達(せんだつ)が列をまとめて山頂まで案内します。こうした役割分担があったことで、多くの人が安心して富士登拝に参加できました。
この信仰の広がりが、江戸の町の中に富士山を持ち込む発想を生みます。それが富士塚です。富士塚は、富士山へ行けない人でも登拝の代替経験を得るために築かれ、講の活動日に登拝する場として機能しました。
明治以降、富士山の意味はさらに拡張します。神仏分離や廃仏毀釈の流れは、登拝の意味合いを信仰中心から観光やスポーツへとずらし、富士山の観光地化を後押ししました。
明治の交通整備と観光化、万国博覧会などを通じた対外提示、学校教育による共有イメージの形成が重なり、富士は近代日本の共通記号として定着していきます。江戸から昭和までの富士山は、信仰と娯楽、地域と国家、内向きの祈りと外向きの表象を同時に引き受けながら、時代ごとに役割を増やしていきました。
図録情報
| 図録名 | 日本の心 富士の美 |
|---|---|
| 発行 | NHK名古屋放送局 |
| 発行日 | 1998年7月10日 |
| ページ数 | 292ページ |
図録 目次
図録を読み終えて
2026年(令和8年)が始まりました。新しい年の最初の記事として、節目にふさわしい存在である富士山を取り上げました。「日本の心 富士の美」展の図録には、富士山をモチーフにした171点の作品が収録されています。平安時代から昭和まで、絵画・工芸・意匠・資料を幅広くたどりながら、日本人が富士山に寄せてきた憧れや信仰、そして美意識の変化を丁寧に追うことができます。
図版はフルカラーで、作品の質感や細部までしっかり伝わってくるため、ページをめくるたびに展示室を歩いているような感覚になります。292ページというボリュームの中に、富士を讃える言葉、富士を描く視線、富士を身にまとう意匠、そして江戸から近代へと広がっていく富士の意味が凝縮されており、眺めるだけでも発見があります。
刊行から時間は経っていますが、まとまった構成で富士の表現史を一冊で見渡せるのが魅力です。中古で入手できることもあるので、富士山の歴史や美術、デザインに関心のある方は、手元に置いてじっくり味わってみてください。

