足利市立美術館で開催された特別展「戦国武将 足利長尾の武と美―その命脈は永遠に―」の展示図録について、内容が気になる方へ。足利長尾氏の概要から、足利学校や山姥切国広まで、図録の見どころを読後の感想とともに紹介します。
- 足利長尾氏とは?
- 関東管領上杉氏の家宰(執事)
- 北条氏の台頭
- 古河藩士として生き残った足利長尾氏
- 図録の見どころ
- 狩野正信と足利長尾氏の関係
- 足利城と勧農城
- 大祥山長林寺と福聚山長林寺
- 長尾顕長と山姥切国広
- 坂東の大学「足利学校」
- 図録情報
- 図録 目次
- 図録を読み終えて

足利長尾氏とは?
関東管領上杉氏の家宰(執事)
足利氏は知っているし、長尾氏も知っている。でも「足利長尾氏(あしかがながおし)」は知らない...という方は多いと思います。詳しくは図録を読んでいただくとして、ここでは足利長尾氏のざっくりした位置づけだけを整理します。
足利氏は、下野国足利荘(現在の栃木県足利市)を本拠とした武士で、足利尊氏が室町幕府を開き初代将軍となりました。尊氏は正室との間に生まれた義詮(よしあきら)を2代将軍に、基氏(もとうじ)を鎌倉へ下向させ、関東統治のための鎌倉府(鎌倉公方)が整えられていきます。
この鎌倉公方を補佐する役職が関東管領(かんとうかんれい)で、当初は上杉氏(尊氏の母が上杉氏出身)に加え、斯波氏・高氏なども担いましたが、のちに上杉氏の世襲となりました。
上杉氏が関東で勢力を広げる過程で、家系は山内(やまのうち)・扇谷(おおぎがやつ)・犬懸(いぬがけ)・宅間(たくま)の4流に分裂し、互いに抗争します。なかでも山内上杉家と扇谷上杉家が有力で、山内上杉家では長尾氏、扇谷上杉家では太田氏が有力被官として台頭しました。
山内上杉家の領国の一つである越後国(現在の新潟県)の統治を任された「越後守護代」が越後長尾氏で、のちに上杉謙信を輩出します。そして、同じく下野国足利荘の代官を任されたのが、足利長尾氏です。
後北条氏の台頭
関東の支配者として君臨してきた山内上杉家ですが、戦国時代中頃になると、相模国(神奈川県)から勢力を拡大してきた後北条氏(北条氏康)に次第に圧倒されていきます。決定打となったのが、1546年の「河越城の戦い(河越夜戦)」です。この戦いで、山内・扇谷の両上杉連合軍は北条軍に大敗を喫しました。
足利長尾氏は主君である山内上杉家を支え続けました。しかしこの敗戦以後、上野国(群馬県)や下野国(栃木県)における上杉方の支配力は揺らぎ、北条氏の脅威が足利の地にも直接及ぶようになります。
山内上杉憲政は北条方の攻勢によって関東での拠点を失い、越後の長尾景虎を頼りました。やがて景虎は上杉姓と関東管領職を継承し、関東出兵を本格化させます。
足利長尾氏にとって、謙信(景虎)は「主家の正統な後継者」であると同時に、「同族(長尾氏)」でもあります。そのため当初は上杉方に与し、関東での活動を支えたと考えられます。
ただ、謙信は冬になると雪深い越後へ戻ってしまう。一方で敵の北条氏は常に隣国にいて、謙信が帰国すると間もなく北条軍が攻め込んでくる。この地理的条件の中で足利長尾氏は、「謙信が来れば上杉に味方し、謙信が帰れば北条に従う」という、きわめて苦しい判断を迫られたのではないでしょうか。
しかし1578年に謙信が急死し、越後で後継者争い(御館の乱)が起きると、上杉方の関東への影響力は急速に低下します。後ろ盾を失った足利長尾氏当主の顕長(あきなが)は、ついに北条氏の軍門に下りました。
この顕長は、隣接する由良氏(新田金山城主)から足利長尾家へ養子に入った人物です。由良氏の当主国繁(くにしげ)は顕長の実兄になります。以後、足利長尾氏と由良氏はともに北条氏の有力家臣として組み込まれ、北条氏政・氏直父子に従い、関東における北条支配の一翼を担うことになります。
古河藩士として生き残った足利長尾氏
1590年、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げ「小田原征伐」が始まります。長尾顕長は北条氏への忠義を尽くすため(あるいは従わざるを得ず)、本拠地の足利城を家臣に任せ、自身は小田原城に入城して籠城戦に参加しました。主不在となった足利城は豊臣方の軍勢に攻められ、陥落してしまいます。
小田原城が開城して後北条氏が滅亡すると、北条方に加担した顕長も処罰の対象となり、命は助かったものの所領は没収されました。その後は、由良氏の配所である常陸国牛久、あるいはその周辺で隠居生活を送ったと考えられます。顕長は1621年に没し、戦国大名としての足利長尾氏は、ここで終焉を迎えました。
しかし、長尾家そのものが途絶えたわけではありません。顕長の子・宣景(のぶかげ)は浪人として雌伏の時期を経たのち、徳川幕府の重臣・土井利勝に召し出され、古河藩の家老職を務めます。こうして長尾家は、幕末まで上級藩士として存続したそうです。
図録の見どころ
狩野正信と足利長尾氏の関係
足利長尾氏は、およそ120年にわたって足利領を治めた武家です。一族の魅力は武芸だけにとどまらず、芸術の面でも優れたものを残しました。図録タイトルにもある「武と美」は、まさにその姿を表しています。
足利長尾氏の菩提寺である長林寺(ちょうりんじ)には、景長(かげなが)・憲長(のりなが)・政長(まさなが)の三人の当主が描いた自画像が残されています。図録では冒頭で、彼らと狩野正信(かのう まさのぶ)との関係に触れています。
狩野正信は、室町幕府に御用絵師として仕え、狩野派の祖とされる人物です。正信の出自ははっきりしていませんが、長林寺には、憲長が寄進したとされる正信筆「観瀑図(かんぱくず)」が伝わっています。さらに、景長が描いた「山水図」の技法が非常に見事であることから、足利長尾氏と狩野派のあいだに交流があったのではないか―そう考えられているようです。
このあたりの詳しい経緯や、三人の自画像、そして「観瀑図」については、図録にしっかり収録されています。気になる方は、ぜひ図録で確かめてみてください。
足利城と勧農城
足利城と勧農城(かんのうじょう)は、足利長尾氏の城です。勧農城は岩井山城(いわいやまじょう)とも呼ばれ、初代景人(かげひと)が築城しました。その後、二代定景(さだかげ)、三代景長(かげなが)の居城として用いられます。のちに景長が足利城を改修して移ったことで、以後は足利城が足利長尾氏の居城となりました。
図録には、長林寺に伝わる2枚の古地図が収録されており、足利城と勧農城の様子が描かれています。足利城には天守や櫓、城壁まで細かく描かれていますが、実際には天守は存在しなかったようです。足利長尾氏の権勢を示すために、誇張して描いたのではないかと推測されています。足利学校(あしかががっこう)や周辺の村、寺も描かれているため、古地図や絵図が好きな方には特におすすめです。
大祥山長林寺と福聚山長林寺
図録には、長林寺が所蔵する長尾系図、長尾家の具足、景長の位牌などの文化財が収録されています。途中に「足利にある2つの長林寺」という小論が差し込まれているのですが、これがとても面白かったです。
足利には、足利長尾氏の菩提寺である大祥山長林寺のほかに、もう一つ福聚山長林寺が存在します。しかも、その福聚山長林寺から景長の位牌が発見されたというのです。
なぜ長林寺が2つあるのか。どうして菩提寺ではない福聚山長林寺に、景長の位牌があるのか。図録では、こうした疑問に対して複数の手がかりをもとに推論が展開されています。
長尾顕長と山姥切国広
長尾顕長が北条氏に臣従した際、北条氏から本作長義(ほんさくちょうぎ)を賜ったとされています。
本作長義は、備前の刀工・長義によって打たれた名刀です。顕長は刀工・堀川国広(ほりかわくにひろ)を足利に招き、本作長義を写すよう依頼しました。こうして完成したのが「山姥切国広(やまんばぎりくにひろ)」です。山姥切国広は国広の代表作の一つであり、本作長義とともに重要文化財に指定されています。
図録の巻末には、山姥切国広と本作長義の原寸大写真が折り込みで収められており、美しい反りや刃文をじっくり楽しめます。ほかにも、布袋の像が彫られた「布袋国広」など、国広作の刀が収録されています。さらに、国広の父とされる旅泊(國昌)の作刀「旅泊七十二作」や、国広の弟子が打った刀も掲載されているので、見比べてみるのも面白いと思います。
坂東の大学「足利学校」
足利学校は、足利市にあった教育機関で、平安時代から戦国時代、江戸時代にかけて学びの場として続きました。「日本最古の学校」ともいわれ、現在も足利を代表する史跡のひとつとして知られています。
キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルは、足利学校を「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(大学)」と海外に向けて書き送ったとされます。こうした記録が残ることからも、その名は当時、国内にとどまらず広く知られていたことがうかがえます。全盛期には全国から約3,000人もの学生が集まったともいわれ、中世日本における最高学府のひとつでした。
足利長尾氏の歴代当主も、学校領の保護や修繕に協力し、地元の誇りとして足利学校を支え続けました。のちに北条氏の勢力下に入った後も、北条氏政が保護を命じる制札(立て札)を出したとされ、権力者が移り変わっても、その価値は認められ続けたことがわかります。
図録ではおよそ30ページを割いて足利学校を取り上げています。関係する書簡や絵画などの資料も豊富で、足利学校の歴史や位置づけが丁寧に解説されていました。
図録情報
| 図録名 | 足利市制100周年記念特別展「戦国武将 足利長尾の武と美―その命脈は永遠に―」 |
|---|---|
| 発行 | 足利市立美術館 |
| 発行日 | 2022年2月10日 初版第1刷 |
| ページ数 | 180ページ |
| 価格 | 1,500円 |
図録 目次
図録を読み終えて
足利長尾氏の領地は、関東の覇権争いの最前線ともいえる北関東に位置していました。そのため常に大国の動向に翻弄され、最後はその波に飲み込まれるように、歴史の表舞台から姿を消していきます。しかし、足利学校の保護に関わり、名刀「山姥切国広」を後世に残したことで、その名は文化史の中に刻まれ続けることになりました。
今回「戦国武将 足利長尾の武と美」を読んだことで、足利長尾氏についての理解が一気に深まりました。
顕長と国繁の実母・妙印尼(みょういんに)の活躍、「武蔵と国広」など、読み応えのある話題も収録されています。これまで断片的にしか知らなかった足利学校や国広についても、背景から整理して学べたのが大きな収穫でした。
この記事を読んで足利長尾氏に興味を持った方は、ぜひ図録を手に取ってみてください。

