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        <title>JUNK-WORD.COM(ジャンクワードドットコム)</title>
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        <description>JUNK-WORD.COM(ジャンクワードドットコム)は、暮らし、生活に役立つ情報を集めたインターネット百科事典です。話題の人物や人気商品、上昇キーワードの他、知っていると役に立つ豆知識や雑学、ちょっと笑える話しやマニアックなネタも紹介しています。みなさんのお役に立つ情報ポータルサイト！！それがJUNK-WORD.COM(ジャンクワードドットコム)です。</description>
        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2012</copyright>
        <lastBuildDate>Wed, 16 May 2012 03:12:10 +0900</lastBuildDate>
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            <title>松屋　フレッシュトマトカレー</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="松屋　フレッシュトマトカレー" src="http://www.junk-word.com/img/matsuya-tomatocurry.jpg" width="320" height="240" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><br />
松屋のフレッシュトマトカレーです。</p>

<p>辛さはありませんが、程よい酸味があり暑い季節には良い商品だと思います。</p>

<p>比較的大きめの鶏肉が入ってるので、並でも満足できますね。</p>

<p>パウダー（香辛料）をかけるとやや辛さがアップ↑</p>

<p>松屋のトマトを使ったメニューは他に「うまトマハンバーグ定食」があります。どちらも好きなのですが、両方ともニンニクが効いているので、食べた後には注意が必要です。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日何食べた？ご飯のおかず、麺類、おやつ、お気に入りの一品・・・</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 16 May 2012 03:12:10 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>群馬「こんにゃくゆべし」です</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="こんにゃくゆべし" src="http://www.junk-word.com/img/yubeshi1.jpg" width="240" height="320" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>近所の方にいただいた群馬のお土産「こんにゃくゆべし」です。</p>

<p><br />
ぷるぶるした食感が夏場にぴったりきます。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="群馬　こんにゃくゆべし" src="http://www.junk-word.com/img/yubeshi2.jpg" width="240" height="320" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><br />
見た感じたから、甘いのかな？と思いましたが食べてみると、ほどよい甘さでした。</p>

<p><br />
冷やして食べるともっと美味しくいただけるかも。</p>

<p><br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="群馬土産　こんにゃくゆべし" src="http://www.junk-word.com/img/yubeshi3.jpg" width="240" height="320" class="mt-image-none" style="" /></span></p>]]></description>
            <link>http://www.junk-word.com/gourmet/001660.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">グルメ</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 14 May 2012 01:18:13 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>崇徳天皇</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="崇徳天皇" src="http://www.junk-word.com/img/sutoku.jpg" width="240" height="320" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
＊崇徳天皇</p>

<p><br />
顕仁親王（崇徳天皇）は1119年鳥羽天皇と中宮藤原璋子（待賢門院）の間に生まれました。しかし、父親は鳥羽天皇ではなく白河院であるとする説が根強くあり、崇徳天皇に対する鳥羽天皇の仕打ちを考えると、単なる噂とはいいきれない面があります。</p>

<p><br />
鳥羽天皇は少なくとも自分の子ではないと考えていたのではないでしょうか。白河院の後押しもあり、わずか5歳で75代崇徳天皇となります。1129年には関白 藤原忠通の娘 藤原聖子（ふじわらきよこ）を后に迎えます。</p>

<p><br />
ふたりの夫婦仲は良かったようですが、子には恵まれず別の女性との間に重仁親王（しげひとしんのう）が誕生します。</p>

<p><br />
天皇の外祖父になり損ねた関白 藤原忠通は崇徳天皇との間に溝ができ、やがてふたりは争うことになります。</p>

<p><br />
白河院が崩御し、鳥羽上皇が院政を開始すると鳥羽院は白河院の治世でたまっていた鬱憤を晴らすかのように報復人事を行い、白河院と関係の深かったものを遠ざけ、人事の一新を行うのです。</p>

<p><br />
後ろ盾となっていた白河院を失った崇徳天皇の立場は弱く、鳥羽院は藤原得子（美福門院）との間に生まれた体仁親王（なりひとしんのう）を皇位につかせるべく崇徳天皇に譲位を迫ります。</p>

<p><br />
自分の皇子である重仁親王に皇位を譲り、自らは上皇となって院政をしくことを考えていた崇徳天皇はこの要請に抵抗します。院政は自分の子や孫を天皇にして、自らは上皇、法皇となり政治の実権を握るシステムです。</p>

<p><br />
自分の子である重仁親王に譲位をすれば、やがては自分が院政を開始して権力を握ることができますが、弟である体仁親王が即位してしまうと院政ができなくなるからです。</p>

<p><br />
そこで、鳥羽院は体仁親王を崇徳天皇の養子とし、やがては重仁親王に譲位することを内々に伝えます。鳥羽院の強引な手法の前にやむなく譲位をした崇徳天皇は上皇となるのですが、即位した体仁親王（76代近衛天皇）は17歳で早世してしまうのです。</p>

<p><br />
約束どおり重仁親王が即位できると考えた崇徳上皇ですがその期待は見事に裏切られます！鳥羽院は実子であり、崇徳の母違いの弟で当時29歳であった雅仁親王（まさひとしんのう）を天皇（77代後白河天皇）にしてしまうのです。</p>

<p><br />
さらに雅仁親王の皇子 守仁親王（もりひとしんのう）が皇太子になったことで、重仁親王の即位は絶望的となるのです。</p>

<p><br />
このような仕打ちを受けながらもなんとか我慢をしていた崇徳上皇ですが、鳥羽院は自分の死後崇徳上皇と後白河天皇が争うことを予想し、得子（美福門院）と後白河天皇の味方を増やす画策をします。</p>

<p><br />
1156年 重病となった鳥羽院を見舞おうとした崇徳上皇は面会を拒絶され、同年鳥羽院がついに崩御すると後白河天皇は自分だけで葬儀を済ませ、駆けつけた崇徳上皇を追い返します。</p>

<p><br />
後白河方の挑発に我慢の限界に達した崇徳上皇は、兄である藤原忠通と対立していた藤原頼長を味方につけ挙兵しここに保元の乱が勃発します。</p>

<p><br />
しかし、事前の画策により後白河方が兵力において圧倒的に有利であり、崇徳側についた武家は源為義、為朝、平忠正らわずかな手勢しかなくあえなく敗北します。</p>

<p><br />
東山の如意山に逃れた崇徳上皇は剃髪して弟がいる仁和寺に身を寄せようとしますが、関わりをおそれた弟の覚性法親王（かくしょうほっしんのう）は後白河方に知らせたため拘束されます。</p>

<p><br />
崇徳上皇は讃岐に配流と決まり、付き従うものは数名のみというありさまでした。配流の地讃岐では無人島にある屋敷で生活をしていたようですが、四方を高い壁に囲まれ門には鍵がかけられ、景色さえもみることができなかったといわれています。</p>

<p><br />
都に戻ることを願っていた崇徳上皇ですが、朝廷は謀反人である崇徳を許すつもりはなく、そのことを知った上皇は「我、生きていても無益なり」と叫び 以後、爪や髪を整えることをぜず延ばし放題となり凄まじき形相となります。</p>

<p><br />
配流の地で失意の9年を送った崇徳上皇は、1164年46歳でこの世を去ります。崇徳上皇が亡くなって以降、二条天皇の崩御や飢饉が頻発したことから、これらの災いは「望郷の鬼」と化した崇徳上皇の祟りである！と人々は恐れるようになります。</p>

<p><br />
朝廷は怨霊となった崇徳上皇を鎮めるため、1177年「崇徳院」の追号を贈ります。怨霊のイメージが強い崇徳上皇ですが、一方では四国の守護神として崇敬されていたという面もあります。</p>

<p><br />
明治天皇は配流の地で亡くなった崇徳上皇と淳仁天皇を祀る白峯神宮を1868年に創建しました。。</p>]]></description>
            <link>http://www.junk-word.com/taiga-drama/kiyomori/001658.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">平清盛の生涯</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 13 May 2012 03:27:42 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>平家物語</title>
            <description><![CDATA[<p>平家物語は鎌倉時代につくられた軍記物です。「祇園精舎の鐘の声」で始まる物語は平氏の栄枯盛衰を描き、現代でも読み語られている名作です。</p>

<p><br />
平家物語の作者は不詳とされていますが、吉田兼好が記した三大随筆のひとつ「徒然草」の中に、平家物語の作者は信濃前司行長（しなののぜんじ ゆきなが）であり、盲目の僧である生仏（しょうぶつ）に聞かせ語り部にしたとされています。</p>

<p><br />
平家物語は琵琶法師の弾き語りにより全国に広まるのですが、口述での伝承であるため、長い年月の間に内容に違いが生じてきました。</p>

<p><br />
そこで、室町時代の琵琶法師である明石覚一が正しい内容を後世に伝えようと記したものが覚一本（かくいちぼん）です。全十二巻と灌頂巻で構成され、平家物語の基本書となっています。</p>

<p><br />
重要文化財に指定されている高良大社所蔵の「平家物語」も覚一本です。</p>]]></description>
            <link>http://www.junk-word.com/taiga-drama/genpei/001656.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">大河ドラマ平清盛　源氏と平氏　雑学・豆知識</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 11 May 2012 03:19:43 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>鳥羽天皇</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="鳥羽天皇（鳥羽院）" src="http://www.junk-word.com/img/toba.jpg" width="221" height="271" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
＊鳥羽天皇</p>

<p><br />
鳥羽天皇は1103年 父堀河天皇と母藤原苡子の間に誕生しました。誕生して間もなく母 苡子が他界し、父 堀河天皇も1107年に崩御したため、わずか５歳で即位し７４代天皇となります。</p>

<p><br />
政治の実権は祖父である白河院が握っていたため、白河院が崩御するまで政治の舞台で活躍することはありませんでした。</p>

<p><br />
藤原璋子（待賢門院）を中宮に迎え、6人の皇子、皇女をもうけますが、顕仁親王（あきひとしんのう・のちの崇徳天皇）は祖父白河院と璋子（待賢門院）との間にできた不倫の子だったのです。</p>

<p><br />
鳥羽天皇もそれを知っていて、陰では崇徳天皇のことを叔父子（おじご）と呼び嫌っていたとの記述が史料に残っています。それでも璋子を寵愛し続けた鳥羽天皇は、1123年には崇徳天皇に譲位をし、自らは上皇となります。</p>

<p><br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="鳥羽天皇　系図" src="http://www.junk-word.com/img/toba-keizu.jpg" width="347" height="594" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
＊鳥羽天皇系図</p>

<p><br />
中宮である璋子の不倫、祖父白河院の絶大な権力の前に憤懣やるかたない生活を送っていた鳥羽上皇ですが、1129年に白河院が崩御すると院政を開始して人事を刷新します。</p>

<p><br />
鳥羽院は藤原得子（ふじわらとくし・美福門院）を入内させ、これを寵愛し体仁親王（なりひとしんのう）が誕生します。体仁親王の誕生により鳥羽院の寵愛が璋子から得子に移ると、宮中内での力関係も逆転します。</p>

<p><br />
得子は自分の子である体仁親王を皇位につけることを画策し、わずか3歳で即位させることに成功するのです。この体仁親王が75代近衛天皇となります。</p>

<p><br />
このあおりを受けたのが崇徳天皇です。崇徳天皇にはすでに皇子である重仁親王（しげひとしんのう）がいたため、体仁親王に皇位を譲ることを拒んでいたのですが、鳥羽院の権力の前に屈し重仁親王に譲位して崇徳上皇となります。</p>

<p><br />
自分の実子である近衛天皇の即位に成功した鳥羽院と得子ですが、期待した近衛天皇は17歳の若さで崩御してしまいます。この崩御が崇徳上皇の呪詛によるものとの噂が流れ、これを信じた鳥羽院は反崇徳の立場を鮮明にします。</p>

<p><br />
もとより実子ではない崇徳の系統に皇位を譲る気のない鳥羽院は、崇徳上皇の皇子 重仁親王ではなく自分の子である雅仁親王（まさひとしんのう）を皇位につけ76代後白河天皇を誕生させるのです。</p>

<p><br />
絶大な権力を握っていた鳥羽院は1156年に大病を患います。死期を悟った鳥羽院は自分の死後崇徳上皇が報復すると考え、得子と後白河天皇の味方になる公家や武家のリストを作成します。</p>

<p><br />
内紛の予兆を感じながら1156年7月20日鳥羽院は54歳で崩御します。鳥羽院の死後、崇徳上皇と後白河天皇の対立が表面化し保元の乱が勃発するのです。</p>]]></description>
            <link>http://www.junk-word.com/taiga-drama/kiyomori/001654.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">平清盛の生涯</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 06 May 2012 20:26:10 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>平経盛</title>
            <description><![CDATA[<p>平経盛は平忠盛の三男で母は源信雅の娘、母違いの兄に清盛、家盛、母違いの弟に教盛、頼盛、忠度がいる。子供は経正、経兼、広盛、経俊、経光、敦盛。清盛の弟としてよりも、敦盛の父として知られています。</p>

<p><br />
経盛は武人としてよりも歌人としての才能があり、多くの歌を残しています。また、笛の名手でもあり父忠盛から受けついだ名笛 小枝(青葉の笛)を息子である敦盛に与えました。</p>

<p><br />
正三位まで昇進し修理大夫経盛と称されます。兄である清盛に従い平氏の全盛期を支えますが、しだいに源氏に押され一族とともに都落ちし、壇ノ浦の戦いで敗北！経盛は弟である教盛とともに海に飛び込みその生涯を終えます。</p>]]></description>
            <link>http://www.junk-word.com/taiga-drama/kiyomori/001652.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">平清盛の生涯</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 06 May 2012 05:20:32 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>平時忠　平氏にあらずんば、人にあらず</title>
            <description><![CDATA[<p>平時忠は中級貴族 平時信の嫡子として1127年に誕生しました。同じ母を持つ姉が清盛の妻となった平時子で、母違いの妹には後白河上皇の子（高倉天皇）を生んだ平滋子（建春門院）、母違いの弟には平親宗がいます。</p>

<p><br />
平時忠は別名平関白（へいかんぱく）と呼ばれ、平氏一門の中では、野心家として知られ権謀術数を駆使して平安末期の朝廷内で暗躍します。</p>

<p><br />
姉の時子が清盛の妻となったことで、清盛の出世とともに時忠も順調に昇進しますが、この人物は生涯で三回も流罪を経験します。</p>

<p><br />
最初は、妹の滋子（建春門院）が生んだ憲仁親王（高倉天皇）を皇太子に擁立しようと考え、二条天皇を呪詛して呪い殺そうとします。しかし、この企ては失敗し官位、官職を剥奪され出雲に流罪となります。</p>

<p><br />
二条天皇が崩御すると京都に呼び戻され、時子や滋子の後押しもあり、従三位　権中納言に昇進し公卿の仲間入りを果たしました。しかし、院と延暦寺の抗争に巻き込まれる形で1169年に再び出雲に流罪となります。</p>

<p><br />
翌年、召還され正三位、従二位と昇進します。平氏全盛期を迎えたこのころに「平氏にあらずんば、人にあらず」という有名な言葉を残したのが時忠です。「此一門にあらざむ人は、皆人非なるべし」と時忠が発言したことが覚一本（かくいちぼん）という史料に記されています。</p>

<p><br />
また、時忠は検非違使別当に三度も就任しました。検非違使は京都の治安維持を担当していましたが、時忠は都を荒らしまわっていた強盗12人を捕らえると彼らの手首を切る厳罰を与え治安維持の強化につとめます。</p>

<p><br />
反平氏の気運が高まると、一門とともに都落ちし西国で勢力の回復につとめます。都落ちの際に平氏によって持ち去られた三種の神器を奪還したい後白河上皇は、時忠を介して平宗盛と交渉をしますが、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡！三種の神器のうち天叢雲剣（あめのむらくものつるぎ）は平氏とともに海底に沈んでしまうのです。</p>

<p><br />
時忠は捕虜となり都へ送られますが、三種の神器のうち八咫鏡（やたのかがみ）を守ったのは自分の功績と主張して極刑をまぬがれます。</p>

<p><br />
さらに、源義経に接近し自らの地位の回復を画策しますがうまくいかず能登に流罪となります。配流された時忠は、この地で平時国という男子をもうけ、この時国の子孫が能登の名家 上時国家、下時国家とされ現在も続いているのです。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">平清盛の生涯</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 26 Apr 2012 02:37:53 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>藤原摂関家（摂政・関白）</title>
            <description><![CDATA[<p>摂関家とは摂政や関白に任命される家柄のことで摂家ともいいます。平安時代に摂政、関白が制定されましたが、律令制の正式な官職ではありません。平安時代中期になると常設となり、摂政、関白のどちらかが常に置かれるようになりました。</p>

<p><br />
大化の改新の功績により中臣鎌足は藤原姓を賜ります。鎌足の子、藤原不比等（ふじわら ふひと）は皇室との結びつきを強め、藤原姓を名乗り太政官の職に就けるのは不比等の家系にのみ限定されます（不比等以外の鎌足の子は中臣姓）</p>

<p><br />
不比等の子供たちの代になると藤原氏は四家に分かれます。長男 武智麻呂(南家）次男 房前（北家）三男 宇合（式家）四男 麻呂（京家）。</p>

<p><br />
平安時代になると北家のみが栄え 藤原良房が人臣ではじめて摂政に就き、養子の藤原基経が初めて関白に就任します。以後、摂政と関白は藤原北家が代々世襲することになります。</p>

<p><br />
藤原道長、頼通父子の代になり摂関政治は全盛期を迎えます。天皇の外戚になり政治を動かしてきた藤原氏ですが、平安時代の後期には院政がはじまり藤原氏の政治的影響力は低下をします。</p>

<p><br />
鎌倉時代 藤原忠通以降　藤原北家は五家（近衛家、鷹司家、九条家、一条家、二条家）に分かれます。これらの家を五摂家と呼び明治に至るまで摂政、関白の地位を独占するのです。</p>

<p><br />
ちなみに藤原北家以外で摂政に就任した例はなく、関白職に関しては安土桃山時代の豊臣秀次のみとなります。豊臣秀吉は摂関家の近衛先久の猶子（仮の親子関係）となる形がとられました。</p>

<p><br />
幕末、王政復古の大号令により摂政、関白が廃止され、明治時代になると皇族摂政が制度化され天皇が国務を行えない場合、皇族に限り摂政に就任することができるようになります。大正天皇崩御の際、後の昭和天皇が一時的に摂政を務めました。</p>

<p><br />
日本国憲法にも摂政の規定があり、天皇が国事行為を行えない場合、皇族に限り摂政に就任することができるとされています。以下のようにあらかじめ順位が決められていますが、現憲法下では摂政に就任した例はありません。</p>

<p><br />
皇太子 → 皇太孫 → 親王及び王 → 皇后 → 皇太后 → 太皇太后 → 内親王</p>]]></description>
            <link>http://www.junk-word.com/taiga-drama/genpei/001648.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">大河ドラマ平清盛　源氏と平氏　雑学・豆知識</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 22 Apr 2012 20:07:27 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>平頼盛（池大納言）</title>
            <description><![CDATA[<p>平頼盛は、平忠盛の五男で母は藤原宗子（池禅尼）、母を同じくする兄に家盛　母違いの兄弟に清盛、経盛、教盛、忠度がいる。</p>

<p><br />
母の藤原宗子（池禅尼）は忠盛の継室であったため兄の家盛同様一族の中で優遇されて育ちます。</p>

<p><br />
頼盛は1131年生まれで嫡男である清盛とは13歳も離れていたことから、忠盛の後継者候補にはなれず次男家盛の早世により清盛が家督を相続しました。</p>

<p><br />
正妻のただひとりの男子として清盛に対抗する意識が強く、距離をおいていたようですが、1167年には従三位に昇進し平氏の中では清盛、重盛についで3人目の公卿となります。</p>

<p><br />
後白河院の近臣として勢力を拡大する頼盛は翌年には参議となり平氏一門の中で確固たる地位を築いていくのです。</p>

<p><br />
政治上の対立から一時参議を解任されていた頼盛ですが、復帰すると一族の重鎮として順調に出世を重ね1183年には権大納言に叙せられました。</p>

<p><br />
母の邸宅「池殿」に住んでいたことから「池大納言」と呼ばれるようになり、頼盛とその子供たちを「池大納言家」と称するようになりました。</p>

<p><br />
池禅尼存命中は勢力を保っていた頼盛ですが、池禅尼が亡くなると権力はしだいに清盛の子どもや時子の一族に移っていきます。</p>

<p><br />
主流からはずれた頼盛は平家の都落ちに従わず後白河院を頼り京に残ることを選択します。源氏による平氏粛清が行われ、平氏派であった公家や武士の所領が没収される中、頼盛は鎌倉に下向して息子ともども頼朝に謁見を許されます。</p>

<p><br />
頼朝は自分の命を救ってくれた恩人池禅尼の息子である頼盛を手厚くもてなし権大納言に復職させるのです。1185年に平氏が壇ノ浦で滅亡すると、頼盛は病を理由に出家をし、翌1186年死去します。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">平清盛の生涯</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 22 Apr 2012 02:00:45 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>平家盛</title>
            <description><![CDATA[<p>平家盛は、平忠盛の次男で母は藤原宗子（池禅尼）、母を同じくする弟に頼盛　母違いの兄弟に清盛、経盛、教盛、忠度がいる。</p>

<p><br />
家盛の生まれた年については確かな史料が存在しないのですが、1127年前後の生まれであったようです。</p>

<p><br />
母 宗子は忠盛の継室であったことから、幼いころより優遇され嫡男である清盛と同じように育てられました。</p>

<p><br />
家盛と清盛の関係がどのようであったのか、記録が残っていないので確かめる術はありませんが、母を同じくする弟の頼盛は清盛と距離を置いていることから、家盛と清盛も仲の良い兄弟ではなかったのかも知れません。</p>

<p><br />
祇園闘乱事件を起こし朝廷内での立場が一時危うくなった清盛にかわり、家盛が重んじられるようになります。</p>

<p><br />
家盛も積極的に政治活動を行うのですが、生来あまり体が丈夫ではなかったようで、1149年鳥羽院の熊野参詣に同行中、病が悪化し帰らぬ人となります（享年23？）</p>

<p><br />
父 忠盛と母 宗子（池禅尼）の悲しみはとても深く、後年 平治の乱で捕らえられた源頼朝（当時13歳）の姿が幼い頃の家盛に瓜二つだと聞いた池禅尼は、頼朝の助命を清盛に嘆願します。</p>

<p><br />
平家を支えてきた継母の懇願に困り果てた清盛は渋々頼朝の命を助け、伊国の蛭ヶ小島（ひるがこじま）に配流としたのです。</p>

<p><br />
頼朝の命を救ったことで平家は滅亡してしまうのですが、平家一門の多くが戦死や処刑をされる中、頼朝は自分の命を救ってくれた恩人池禅尼の息子である頼盛を助命するのです。<br />
</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">平清盛の生涯</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 15 Apr 2012 18:50:56 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ユーキャンの韓国語講座「ピンズラー」の特徴</title>
            <description><![CDATA[<p>韓国語を上達させたくても、会社や学校以外の時間を作って教室などに通うことはできないという人も少なくありません。また、自宅で韓国語を勉強して上達しようと考えても、何をどうやったらいいのか分からないという人もいることでしょう。</p>

<p><br />
そのような人は、通信教育で韓国語学習に取り組んでみてはいかがでしょうか。例えば、数多くの通信講座を提供しているユーキャンでは、韓国語上達を目指す人のために「ピンズラー韓国語」を用意しています。</p>

<p><br />
アメリカ生まれの語学学習法であるピンズラーの特徴は、「聴く」「話す」の2つを繰り返すだけという点です。それ以外には何もしないので、教材にはテキストはついてきません。ピンズラーは、1日に30分間、教材のCDから流れてくる質問に答えるだけで韓国語の上達を目指します。</p>

<p><br />
ただし、CDの音声を、初めから完全に聞き取って理解するのは難しいかもしれません。また、質問に対する答えが、すぐにスラスラと口から出てくる人も多くはないでしょう。しかし何度も繰り返しているうちに、きちんと質問の聞き取りができて、それに答えられるようになるはずです。</p>

<p><br />
このようにピンズラーの語学学習は、他の方法とは異なるので戸惑うこともあるでしょう。また、一般的な教材のようなテキストがないことに不安を抱く人もいます。</p>

<p><br />
ユーキャンでは専門のスタッフによるサポートも行っています。もし、繰り返し聞いても理解できないなど、困った時には助けてもらうことができるので心配ありません。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">韓国語勉強法・韓国語上達の近道</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 11 Apr 2012 17:36:27 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>長田忠致（おさだ ただむね）</title>
            <description><![CDATA[<p>長田忠致（おさだ ただむね）は、尾張国野間近辺を治めていた豪族で娘は鎌田正清の妻となっていました。鎌田正清は清和源氏（河内源氏）の嫡流源義朝（頼朝の父）の乳兄弟で義朝が最も信頼をおく第一の側近でした。</p>

<p><br />
長田忠致は平治の乱で敗れ落ち延びる途中の義朝と鎌田正清を一時的に匿います。しかし、恩賞目当てに息子 景致（かげむね）と謀り入浴中の義朝を襲撃し惨殺！さらに鎌田正清をも殺害してしまうのです。</p>

<p><br />
思惑通り平家から恩賞を与えられた長田忠致、景致父子ですが、頼朝が平家打倒の兵を挙げると今度は頼朝に従い各地を転戦します。</p>

<p><br />
長田父子の参陣を許した頼朝ですが、父を殺された恨みは忘れていませんでした。平家が滅んだ後、用なしになった長田父子を義朝の墓前で処刑したと伝えられています。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">大河ドラマ平清盛　源氏と平氏　雑学・豆知識</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 01 Apr 2012 05:29:40 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>祇園闘乱事件</title>
            <description><![CDATA[<p>1147年6月15日祇園社（八坂神社）で行われた奉納祈願に参加した平清盛は大願成就を祈り田楽を奉納します。清盛の家臣が武器を帯びたまま参詣しようとしたところを祇園社の神人に咎められ小競り合いとなるのですが、</p>

<p><br />
このとき清盛の家臣が社殿に向かい矢を放ち、そのうちの何本かが社殿や神人に当たってしまったのです。その場は何とかおさまりましたが、後日祇園社と関係の深い延暦寺が鳥羽上皇の元へ参内し忠盛、清盛親子の官位剥奪と配流を訴えます。</p>

<p><br />
忠盛、清盛親子は矢を放った家臣を検非違使に引渡し事をおさめようとしますが、怒り心頭の延暦寺側は神輿（みこし）を担ぎだし強訴（ごうそ）の動きを見せます。</p>

<p><br />
強訴（ごうそ）とは寺社勢力が神仏の権威を背景に自らの意見を強行に主張する集団行為です。一般的には僧や神人が神輿を担ぎ民衆を巻き込みながら、自らの主張を大声で叫び圧力を加えていきます。</p>

<p><br />
延暦寺側は祇園社と日吉社の神輿を担ぎ京に入ろうとしますが、鳥羽上皇が派遣した武士（源為義を中心とする源氏と平氏）らがこれを防ぎます。</p>

<p><br />
鳥羽上皇は摂政 藤原忠通、内大臣 藤原頼長ら公卿を召集して忠盛、清盛親子の処分を協議するのですが、結果は銅三十斤という軽微な罰金刑が言い渡されました。</p>

<p><br />
公卿の中には重い刑罰を望むものもいたようですが、鳥羽上皇は忠盛、清盛親子の軍事力、経済力を今後も活用いきたいと考え軽い刑で済ませたのです。</p>

<p><br />
この処分に納得のいかない延暦寺でしたが、穏健派と強硬派の対立が表面化し内部抗争へと発展してしまいます。一時は座主が延暦寺から追われる騒ぎとなりますが、上皇が強硬な態度を示したため強硬派も折れこの騒ぎは収束しました。</p>

<p><br />
この祇園闘乱事件では、天皇をしのぐ院（上皇、法皇）の権力と寺社勢力の強訴を阻止した武家の武力が大きいことを世に知らしめた事件でした。</p>]]></description>
            <link>http://www.junk-word.com/taiga-drama/kiyomori/001638.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">平清盛の生涯</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 08 Mar 2012 01:09:24 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>平時子（二位尼）</title>
            <description><![CDATA[<p>清盛の最初の妻は高階基章の娘でふたりの間には嫡子である重盛と次男基盛が生まれています。さらに清盛は同じ平家である平時子を妻に迎えます。</p>

<p><br />
高階基章の娘が正室、平時子が継室ということになるのですが、高階基章の娘が病没後に時子を妻としたのか、生存中にすでに妻となっていたのかはわかりません。</p>

<p><br />
平時子の実家は清盛と同じ桓武平氏ですが、葛原親王の子である高棟王と高見王のときに系統が分かれます。高見王の子、高望王の系統から伊勢に勢力を持った一族を伊勢平氏と呼び、ここから正盛、忠盛、清盛が出ます。</p>

<p><br />
一方、、高棟王の子孫は京都に残り公家として繁栄します。この系統が時子の実家です。時子の父である平時信は鳥羽法王の近臣として仕えていた中級の公家です。</p>

<p><br />
時子は清盛との間に三男一女（宗盛、知盛、重衡、徳子）をもうけ平家一門を繁栄へと導きます。娘 徳子が高倉天皇の子（安徳天皇）を生んだことにより二位の官位を受けたことから二位尼と呼ばれるようになります。</p>

<p><br />
清盛亡き後は、源氏におされる平家を必死で守りますが、時流には逆らえず壇ノ浦で幼い安徳天皇を抱き「浪の下にも都の候ぞ」と唱え入水して果てるのです。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">平清盛の生涯</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 16 Feb 2012 02:32:08 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>生後４ヶ月ですがまだ長い時間昼寝をすることがあり心配です</title>
            <description><![CDATA[<p>生後４ヶ月ぐらいになると徐々に昼夜の区別がつくようになります。</p>

<p><br />
それにともない夜寝て、昼起きるという生活リズムが形成されるようになるのですが、まだこの時期は昼寝の時間が長い子もたくさんいます。</p>

<p><br />
昼間はできるだけ散歩をしたり、話しかけたり、遊んであげたりすることが大切です。朝起きる時間や授乳、お散歩、お昼寝、お風呂の時間を一定にすると生活のリズムが徐々にできてきます。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃん4ヶ月、5ヶ月、6ヶ月</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 12 Feb 2012 01:22:21 +0900</pubDate>
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