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今川了俊 駿河・遠江半国守護(はんごくしゅご) ・堀越氏

20年以上に渡り九州探題を務め幕府の九州統治に貢献した了俊ですが、3代将軍足利義満によって九州探題を解任されています。


解任の理由については、了俊の影響力がこれ以上強くならないように義満が手を打った、九州探題任官を狙う大内義弘(おおうちよしひろ)の讒言にあったなど諸説ありますが真相は不明です。


解任された了俊は駿河と遠江の半国守護に任命されています。守護は本来一国につき一人ですが、例外的な措置で守護を二名選任することもあり、駿河の守護は甥の泰範(やすのり)と、遠江の守護は弟の仲秋(なかあき)との半国守護になりました。駿河の統治を巡り泰範との間には亀裂が生じたとされています。


1399年義満に敵対した大内義弘が挙兵(応永の乱)すると、了俊は義弘に加担しますが、乱は幕府軍によって鎮圧されました。了俊は乱の当事者として討伐されそうになりますが、泰範が嘆願したことで助命されます。


了俊の半国守護は取り上げられ、乱の鎮圧に功績のあった泰範が駿河、遠江の守護に任命されたのです。


了俊は遠江国堀越郷で隠居生活を送り、了俊の系統は堀越氏(ほりこしし)を名乗るようになります。「遠江今川氏」とも呼ばれた了俊の子孫は、以後一定の勢力を保持しますが、今川義元の家督継承時に起きた花倉の乱では、義元の兄 玄広恵探(げんこうえたん)を支持しました。


義元と敵対した堀越氏は没落しますが、今川氏滅亡後には徳川家康に従い旗本として生き延びたとされています。

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