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今川義元(いまがわよしもと)徹底解説

駿河国、遠江国、三河国を統治した戦国大名今川義元(いまがわよしもと)!桶狭間の戦いで悲運の 最期を遂げ、織田信長の引き立て役になってしまった今川義元とはどのような人物だったのでしょうか? 今川家の出自から家督争い、領国の統治、合戦まで、今川義元の生涯を徹底解説していきます。

1、今川氏とはどのような一族?

今川氏と足利氏系図
*足利氏一門・足利氏と今川氏の系図

戦国時代に駿河国、遠江国、三河国を領有した今川氏とはどのような一族なのでしょうか?

まずは今川氏の出自からみていきます。

今川氏は室町幕府を開き将軍となった足利氏の一門です。

源氏の棟梁で八幡太郎と呼ばれた源義家(みなもとのよしいえ)の孫にあたる義康(よしやす)が足利氏 の祖で、義康の兄義重(よししげ)が新田氏の祖です。

足利氏からは細川、畠山、斯波、仁木、一色などの一族が枝分かれしていきますが、今川氏もその中のひとつです。

足利氏3代当主義氏(よしうじ)の子長氏(ながうじ)が吉良氏の祖となり、その吉良氏から分かれた一族が今川氏です。

吉良氏の初代長氏(ながうじ)の嫡男満氏(みつうじ)が吉良氏を継ぎ、次男の国氏(くにうじ)は、三河国幡豆郡(はずぐん)今川荘に移り今川を名乗ることになりました。

2、今川氏歴代当主

今川氏歴代当主
*今川家の歴代当主

国氏(くにうじ)ー基氏(もとうじ)ー範国(のりくに)ー範氏(のりうじ)ー泰範(やすのり)ー範政(のりまさ)ー範忠(のりただ)ー義忠(よしただ)ー氏親(うじちか)ー氏輝(うじてる)ー義元(よしもと)ー氏真(うじざね)

今川氏初代国氏から数えて11代目の当主が義元です。今川氏が駿河の守護になったのは3代当主範国からなので、範国を初代当主とする考え方もあります。今川氏の興亡を解説するときによく今川十代という呼び方をしますが、この場合は3代範国から12代氏真までの当主を指します。

先程紹介したように吉良氏から分かれた今川氏は三河国の今川荘を地盤にしていましたが、当時の今川荘はわずか三ヵ村しかなかったとされています。

小領主であった今川氏がどのようにして駿河国、遠江国、三河国の太守にまで飛躍したのか、その鍵を握る重要な人物を紹介していきます。

■3代今川範国(いまがわのりくに)
今川荘の小領主であった今川氏を駿河、遠江の守護にまで押し上げた人物が範国です。平和な時代であれば範国がここまで出世することはなかったでしょう。しかし、範国の生きた時代は動乱の時代でした。

鎌倉幕府の滅亡、建武の親政と混乱する世の中で頭角を現した範国は、建武政権下で遠江守護に任命されます。その後、足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐天皇から離反すると、範国は尊氏に従い各地を転戦して武功をあげます。青野原の戦いでは北畠顕家(きたばたけあきいえ)の軍と激戦を展開しました。

北畠顕家は建武政権下で鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任命され奥州の統治を任された人物です。後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏を討つべく奥州から大軍を率いて西上します。足利義詮(あしかがよしあきら)が守る鎌倉を落とすと、京を目指しさらに軍を進めました。

顕家の大軍に京を占領されれば尊氏は危機に陥ります。顕家軍を追い西上してきた土岐頼遠(ときよりとお)を総大将とする足利勢は、美濃国青野原で顕家軍に攻撃を仕掛けたのです。

この軍勢の中に今川範国もいました。青野原の戦い(あおのがはらのたたかい)は大軍を擁した顕家軍の勝利に終わりますが、少数にもかかわらず果敢に戦った頼遠や範国の奮戦はのちに評価を受けます。

奥州からの強行軍と青野原の戦いによる疲弊で顕家軍の進軍は鈍り、美濃への侵攻をあきらめ伊勢を迂回することになります。顕家はその後も各地で足利勢と戦いますが次第に劣勢になり、石津の戦い(いしづのたたかい)で高師直(こうのもろなお)に敗れ討死しました。

青野原の戦いの武功が認められた今川範国は、足利尊氏から駿河の守護に任命されます。一時駿河、遠江二ヵ国の守護になりますが、遠江の守護はその後仁木氏、千葉氏、今川氏、斯波氏が交代で任命され、やがて今川氏と斯波氏の両家で争うようになります。駿河の守護職は代々今川氏が継承し、この駿河を地盤に力を蓄えていったのです。

■今川貞世(いまがわさだよ)・今川了俊(いまがわりょうしゅん)
今川貞世は今川範国の子です。家督は兄の範氏(のりうじ)が継いだため当主ではないのですが、武勇に優れ今川家の勢力拡大に貢献しました。

今川貞世(了俊)系図
*今川貞世(了俊)、泰範系図

今川貞世は。2代将軍足利義詮が死去すると出家して了俊を名乗るようになります。3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)から九州探題(きゅうしゅうたんだい)に任命された了俊は兵を引いて九州に向かいます。

その頃の九州は南朝方の勢力が優勢で大宰府を占領していました。了俊は苦戦しながらも、大内氏や大友氏の協力を得て九州の平定に成功します。了俊は20年以上に渡り九州の統治を任されますが、晩年には九州探題を解任され、遠江と駿河の半国守護に任命されます。弟の仲秋(なかあき)や、今川家の家督を継いだ甥の泰範(やすのり)らと領国の共同統治を行いました。

最終的には駿河と遠江の守護は泰範のものとなり、了俊は遠江国堀越郷で隠居生活を送ることになったのです。以後、了俊の系統は堀越氏(ほりこしし)を名乗り遠江今川氏と呼ばれました。

■9代今川氏親(いまがわうじちか)

今川氏親(いまがわうじちか)系図
*9代当主今川氏親系図

今川氏親は今川義元の父です。氏親の家督相続を巡り今川家では大きな内紛が起こりました。事の発端は、氏親の父で8代当主であった義忠(よしただ)が戦死したことに始まります。

遠江の守護職をめぐり斯波氏と争っていた義忠は、斯波氏に従っていた遠江の国人横地氏と勝間田氏を攻めるべく遠江に侵攻していました。義忠は横地城と勝間田城を落とし両氏を滅ぼしますが、駿河に戻る途中に残党に襲われ討死してしまったのです。

義忠には嫡男の龍王丸(のちの氏親)がいましたが、まだ幼かったため今川家の家督を継がせるべきか家臣の意見が対立します。幼い龍王丸(りゅうおうまる)を推す一派と、今川一門の小鹿範満(おしかのりみつ)を推す一派が争い家中が分裂しました。

ここで登場したのが伊勢盛時(いせもりとき)のちの北条早雲(ほうじょうそううん)です。盛時は室町幕府に仕えた伊勢氏の一族で、父の盛定は幕府の申次衆(もうしつぎしゅう)を務めており、盛時も9代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)の申次衆となっています。

盛時の妹(もしくは姉)が義忠の正室となった北川殿であり、義忠と北川殿の間に生まれた子が龍王丸です。つまり、盛時にとって龍王丸は甥になります。

伊勢盛時(いせもりとき)・北条早雲、北側殿系図
*北条早雲・北川殿系図

小鹿範満を擁立する一派は、堀越公方と扇谷上杉家の後ろ盾を得ると、堀越公方から上杉政憲(うえすぎ まさのり)が、扇谷上杉家からは太田道灌(おおたどうかん)がそれぞれ派遣され今川家の家督争いに介入してきたのです。

これに対し、龍王丸を推す一派は北川殿の兄(もしくは弟)である盛時を頼ります。駿河に下向した盛時は上杉政憲、太田道灌と交渉を行い、龍王丸が成人するまでの間、小鹿範満が家督を代行することで話しをまとめたのです。

およそ10年間家督を代行した範満ですが、成人した龍王丸に家督を返上する気配をみせません。業を煮やした盛時は密かに京を発ち駿河に入ると、龍王丸を支持する勢力を結集して範満を急襲します。不意を突かれた範満は抵抗むなしく敗れ自刃して果てました。こうして龍王丸が今川家の家督を継ぎ9代当主氏親となります。

駿河国興国寺城・駿府城
*興国寺城・駿府城

伊勢盛時は氏親から興国寺城を与えられ城主になると、氏親の名代として今川家の兵を率いて遠江の攻略に乗り出します。 氏親が成長すると遠江は氏親に任せ、自身は伊豆に進出して独自に勢力を拡大していきました。盛時の子氏綱の代から北条氏を名乗り、やがて関東を統治する戦国大名「後北条氏」へと成長していったのです。

氏親は中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の娘(寿桂尼)を正室に迎え朝廷との結びつきを強めると、遠江の攻略を加速させ斯波氏から遠江守護の座を奪い返します。多くの国人が今川に従属することになり、この中には井伊谷を拠点にしていた井伊氏もいました。

氏親は手に入れた遠江を掌握するため検地を実施しています。また、「今川仮名目録」と呼ばれる訴訟の判例集を制定して、統治が円滑に進むよう制度を整えたのです。

今川氏が守護大名から戦国大名へと発展したのは、氏親の代からだとされています。氏親は1526年に亡くなります。壮大な葬儀が行われ、家督は嫡男の氏輝(うじてる)が継ぎました。

氏親と伊勢盛時の活躍により遠江を手に入れた今川氏は、やがて隣国の三河に侵攻することになります。

3、今川義元への家督継承・花倉の乱(はなくらのらん)

今川義元(いまがわよしもと)系図・花倉の乱
今川義元系図・花倉の乱

ここまでは今川氏の出自と、歴代当主の中から主だった人物を紹介してきましたが、いよいよ今川義元の登場です。

今川義元は、9代当主今川氏親の子で幼名を方菊丸(ほうぎくまる)といいます。氏親には6人の男子が誕生しており、嫡男の氏輝(うじてる)が家督を継承しています。方菊丸は家督を継ぐ立場ではなかったため、幼くして僧籍に入れられます。

臨済宗善得寺(ぜんとくじ)に入った方菊丸を養育した人物が九英承菊(きゅうえいしょうぎく)のちの太原雪斎(たいげんせっさい)です。九英承菊が太原雪斎と名を改めるのはのちのことですが、便宜上ここからは太原雪斎という名で説明をしていきます。

方菊丸は12歳で得度式(とくどしき)を行うと名を「承芳(しょうこう)」と改めます。得度式とは仏門に入るための儀式。僧侶なるための儀式です。

太原雪斎は承芳の修行場として京都の建仁寺(けんにんじ)を選びます。建仁寺でどのくらいの期間修行を行ったのかは定かではありませんが、承芳は「栴岳(せんがく)」という道号を与えられ「栴岳承芳(せんがくしょうほう)」となります。その後妙心寺(みょうしんじ)に移りさらに修行を重ねます。

1535年善得寺の僧 琴渓承舜(きんけいしょうしゅん)の七回忌法要に出席するため、栴岳承芳(義元)と太原雪斎は一時駿河に戻っていたのですが、その翌年に大事件が起こります。家督を継いでいた氏輝が突然亡くなったのです。さらに不可思議なことに弟の彦五郎も氏輝と同じ日に死去しています。

兄弟が同時に亡くなるということは普通ではありえません。戦や災害で命を落とすことはありますが、この当時駿河国で疫病が蔓延していたり、地震が発生したとの記録は残っていません。また、氏輝や彦五郎が出陣したという史料もありません。

これだけの大事件にもかかわらず、今川家の記録には詳細な経緯が記されていないのです。記録に残すことができないような事情があったのだと推測されます。

氏輝と彦五郎を失った今川家では、次の当主を早急に決める必要に迫られます。氏親の子で残っている男子は4人で、そのうち3人は僧籍に入っていました。六男の氏豊(うじとよ)は、今川一族 那古野氏(なごやし)の養子となっていたため除外されました。

僧籍に入っていた3人とは、三男の玄広恵探(げんこうえたん)、四男の象耳泉奘(しょうじせんじょう)、五男の栴岳承芳ですが、そのうち四男の象耳泉奘は家督を相続する気がなかったようで、結局 三男の玄広恵探と五男の栴岳承芳が11代当主の座をかけ争うことになったのです。

栴岳承芳の母は氏輝と同じ寿桂尼です。当然寿桂尼は我が子を当主に据えるために積極的に動いたものと推測されます。 寿桂尼と太原雪斎は13代将軍足利義晴(よしはる)の元に使者を送り支持を得ることに成功すると、玄広恵探側についた武将の切り崩しを行います。

玄広恵探は自分が住職を務めていた遍照光寺(現在の遍照寺)のあった花倉を拠点に栴岳承芳と戦いを展開します。家中を二分する戦いは当初互角でしたが、寿桂尼や太原雪斎を擁した栴岳承芳側が次第に有利となり、花倉城を落とされた玄広恵探は普門寺で自刃しました。

こうして栴岳承芳は今川家の家督を継ぎ今川義元となったのです。

4、今川義元と北条氏綱の対立 河東一乱(かとういちらん)

北条早雲伊豆、相模への侵攻・今川からの独立
*北条早雲の伊豆・相模への侵攻

家督を継ぎ11代当主となった栴岳承芳は還俗して今川義元となります。「義」の字は将軍義晴から与えられた諱(いみな)です。義元の養育係であった太原雪斎は臨済寺(りんざいじ)の住職になります。臨済寺は亡くなった氏輝の菩提寺です。 義元は太原雪斎を顧問にして領国の統治を進めていくことになります。

一方、義元の父氏親の家督相続をバックアップして氏親政権を支えた伊勢盛時(北条早雲)はどうしていたのでしょう?

盛時は氏親の名代として、今川軍を率いて遠江に進出するかたわら、隣国の伊豆にも目をつけていました。

伊豆に侵攻した盛時は、韮山城を居城に定め短期間で伊豆を平定すると、相模国にも手を伸ばし大森氏から小田原城を奪います。今川氏と協力をしながら領土を拡張していった盛時は、相模に進出したころから今川氏から離れ独自の行動をとっていきます。

1516年ごろには相模国を平定して伊豆、相模二ヵ国を領有する大名となりました。家督を氏綱に譲った盛時は1519年に死去します。

1536年に勃発した今川家の内乱(花倉の乱)では、氏綱は栴岳承芳(義元)を支持したとされています。今川家と北条家は良好な関係を築いていましたが、義元が家督を継ぐと様相は一変します。

義元は北条氏と敵対していた甲斐 武田氏と同盟を結んでしまったのです。武田信虎の娘が義元に嫁いだことで今川氏と武田氏の同盟(甲駿同盟)が締結されました。

義元がなぜこのような行為に出たのかは不明です。三河国に侵攻するため背後を固めておく必要があった義元にとって、領土の拡張に貪欲な武田信虎は脅威であり、何としてでも手を結びたい相手でした。

北条氏との良好な関係に加え、武田氏と同盟を結べば背後の心配をする必要はなくなります。のちに今川、北条、武田は三国同盟(甲相駿三国同盟)を結びますが、この頃にはすでに義元の頭の中に三国同盟の構想があったのかもしれません。

しかし、これを知った氏綱は激怒して駿河国東部に侵攻します。

河東一乱(かとういちらん)・駿河国駿河郡(駿東郡)と富士郡
*河東一乱・駿河国駿河郡(駿東郡)と富士郡

氏綱率いる北条軍は、富士川から東の駿東郡(駿河郡)と富士郡を守っていた今川方の軍勢を蹴散しこの地域を占領しました。以後、駿東郡(すんとうぐん)と富士郡(ふじぐん)をめぐり、今川氏と北条氏の間で10年におよぶ戦いが展開されます。富士川から東の地域(河東)で起こったこの争乱を河東一乱と呼んでいます。

5、甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)

甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)・今川、武田、北条の同盟
*今川、武田、北条 甲相駿三国同盟

河東一乱の緊張が続く中、1541年に甲駿同盟を揺るがす大きな事件が起こります。甲斐の守護 武田信虎が嫡男 晴信(はるのぶ)に追放されてしまったのです。

信虎は義元に嫁いだ娘に会うため駿河を訪れますが、これを絶交の機会ととらえた晴信は国境を封鎖して信虎の帰国を拒否したのです。

武田晴信のクーデターに義元がどの程度関与していたのかは不明ですが、義元は信虎の身柄を引き受けることに同意します。息子に追放された信虎は一度も甲斐に帰国することなく、駿河でその生涯を終えました。

晴信のクーデターは甲斐の国人や民衆から支持され大きな混乱は起こりませんでした。晴信を中心に団結をした武田軍は信濃への侵攻を加速させます。

一方、今川と敵対関係となった北条では1541年に氏綱が死去すると、嫡男の氏康が家督を継承します。今川義元はこの機に乗じ占領された駿東郡と富士郡を奪還すべく、山内上杉氏や扇谷上杉氏と連絡を取り合います。

1545年義元が軍勢を率いて河東に侵攻すると、これを迎え撃つため氏康も出陣しますが、義元と手を結んだ山内上杉氏と扇谷上杉氏の大軍が河越城を包囲したのです。

両方から攻撃を受けた氏康は絶体絶命のピンチに立たされます。この危機を脱するため氏康は武田晴信に仲裁を依頼して 今川との和睦を模索したのです。

義元は河東から北条軍が撤退することを条件にこの申し出を承認します。この和睦によっておよそ10年間続いた河東一乱は終結して、駿東郡と富士郡は再び今川の領地になったのです。

1550年今川義元に嫁いでいた武田信虎の娘 定恵院(じょうけいいん)が死去すると、義元の娘が晴信の嫡男義信に嫁ぐことが決まり、両家の同盟は維持されました。

約束通り1552年に義元の娘が武田義信の元に輿入れすると、1553年には北条氏康の娘が義元の嫡男氏真に嫁ぎ、さらに翌年には晴信の娘が氏康の嫡男新九郎(のちの北条氏政)に嫁いだのです。

こうして三者が互いに婚姻関係を結ぶことで、三国の同盟(甲相駿三国同盟)が締結されました。

この同盟は「善得寺の会盟(ぜんとくじのかいめい)」とも呼ばれ、今川義元、武田晴信、北条氏康の三者が善得寺で会談を行ったとされてきました。

戦国時代を代表する三人の武将が顔を合わせるという設定は絵になるため、ドラマでよく登場するシーンなのですが、 三者の対面に関しては信頼できる史料が存在しません。

軍記物など脚色の強い史料に記載があるだけなので、実際にはこのような会談はなかったと考えられています。三武将の対面は否定されても、三国の同盟が締結されたのは確かです。この同盟により背後の心配のなくなった三者は、それぞれ領地を拡大していきます。

義元は三河への侵攻を加速させ、尾張の織田氏との抗争に突入します。晴信は北信濃に進出し川中島で長尾景虎(上杉謙信)との死闘を展開します。氏康は北関東に向かい里見氏、小山氏、宇都宮氏を攻めています。

6、今川義元の三河侵攻 今川対織田の直接対決! 小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)

今川義元対織田信秀 小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)
*今川義元対織田信秀 小豆坂の戦い

戦国時代の三河国には大きな勢力は存在せず、松平氏、菅沼氏、戸田氏、奥平氏、牧野氏など中小規模の国人がそれぞれ領地を統治していましたが、家康の祖父である松平清康(まつだいらきよやす)が家督を継承すると西三河を平定します。

さらに東三河にも侵攻して多くの国衆を服属させますが、1535年尾張に進出した清康が家臣に暗殺される事件(森山崩れ)が起こり、以後松平氏の勢力は急速に衰えます。

尾張の織田信秀(おだのぶひで)はこれを好機ととらえ松平領に侵攻すると、安祥城(あんしょうじょう)を奪い西三河攻略の拠点とします。

一方、今川義元が三河国への侵攻を開始したのは、甲相駿三国同盟よりも前の1546年ごろだとされています。

義元は三河の国人に対し今川家に服従するよう迫ります。味方になった者には領地を安堵し、敵対する者には兵を送り攻め立てました。

三河国では多くの国人が今川に臣従しますが、この動きを見た織田信秀が西三河への本格的な侵攻を開始します。

1547年松平氏から援軍の要請を受けた義元は、その見返りとして松平広忠(まつだいらひろただ)の嫡男竹千代(のちの徳川家康)を人質に出すよう命じます。

広忠は竹千代を駿府に送りますが、その途中戸田氏の裏切りにあい、竹千代は敵対する織田に奪われてしまったのです。

義元は裏切った戸田氏の居城田原城を攻めこれを陥落させると、翌年 三河国額田郡小豆坂で織田信秀の軍と合いまみえることになりました。

今川と織田の領地は接していなかったため、これまで本格的な合戦は行われていませんでした。両軍が直接対決するのはこの小豆坂の戦いが最初だとされています。

太原雪斎を大将とする今川・松平連合軍に対し、織田信秀、信広軍は兵力で劣るも巧みな戦術で互角の戦いを展開しました。 最終的に織田軍が安祥城に兵を引いたことで戦いは終息します。

西三河をめぐり今川と織田の緊張状態が続く中、1549年4月松平広忠が家臣に暗殺されるという事件が起こります。広忠の嫡男竹千代は織田に人質としてとられたままであり、松平氏が織田へ寝返ることを心配した義元はすぐさま兵を送り岡崎城を接収したのです。

さらに義元は安祥城への攻撃を太原雪斎に命じます。雪斎は猛攻撃のすえ城を落とすと守将の織田信広を生け捕りにします。

雪斎は織田信秀と交渉を行い、信広(信秀の長男)と竹千代の交換を実現したのです。

竹千代は改めて今川氏の人質として駿府に送られることになりました。

安祥城を落とし西三河から織田の勢力を駆逐した義元は、三河のほぼ全域を手中に収め、駿河、遠江、三河三国の太守となったのです。

7、今川義元の領国経営と織田信長の家督継承

今川義元は武田氏との同盟関係を継続するとともに、敵対していた北条氏との間にも姻戚関係を結び、1554年にはいわゆる甲相駿三国同盟を完成させています。

三国同盟により背後の脅威を取り除いた義元は、1556年になると三河で検地を実施しています。

当時の検地は差出検地なので、農民は実際の生産量よりも低く申告します。同じ差出検地でもより厳しい基準で検地を実施することで税収は確実にアップしたのです。さらに、国人衆の経済状況なども把握することができ、軍役の負担を増やす根拠にもなりました。

義元が領国の経営に専念している期間、尾張の織田氏は何をしていたのでしょうか?尾張では1551年 織田信秀が死去しています。信秀は元々尾張下四郡の守護代清州織田家の奉行にしかすぎなかったのですが、下剋上の世で頭角を現し主家を凌駕するまでに成長しました。その実力者信秀が亡くなると尾張国内には動揺が走りました。

家督は三男の信長が継ぎますが、信長の弟信行(のぶゆき)を支持する勢力との間に軋轢が生じ国内は乱れます。

信長は1555年に主家である尾張下四郡の守護代 織田信友(おだのぶとも)を討ち清州城を手に入れると、1556年には稲生の戦い(いのうのたたかい)で挙兵した弟の信行を破っています。母の懇願で一度は信行を許しますが、再び反抗する態度を見せたため、清州城におびきだし信行を暗殺しています。

1558年には尾張上四郡の守護代織田信賢(おだのぶかた)を浮野の戦い(うきののたたかい)で破り追放します。尾張守護 斯波義銀(しばよしかね)は信長の傀儡であり、信賢を討ったことで尾張をほぼ統一したのです。

ここでひとつ大きな疑問が浮かびます。信秀の死後混乱していた尾張を今川義元はなぜ攻めなかったのでしょうか?

義元は「うつけの信長はいずれ自滅する!」と考え、あえて尾張に出兵せず三河の統治を優先したとする考えが通説になっています。

義元が尾張に攻め込めば、分裂している織田一族を再び結束させる恐れもあり、放っておけば一族内の争いで疲弊すると義元が考えたとしてもおかしくはありません。

ただし、個人的には義元は尾張に攻め込むだけの余力がなかったのでは?と考えています。

義元が家督を継いで以降、河東一乱や三河への侵攻など、長期にわたり戦争状態が続きました。戦争を続けるには莫大な戦費を捻出しなければならず、領民には重い税が課せられます。駿河や遠江の国人たちは戦場に駆り出され、戦死や負傷などの人的被害も増加しています。

このような状態の中、さらに大国の尾張に攻め込み長期戦にでもなれば内部崩壊の危険性がありました。義元は疲弊した国内を立て直すため、1550年からおよそ10年をかけて領国の統治を行ったのだと推測しています。

もちろんこの期間何もしなかった訳ではありません。尾張の国人に対し調略を行い鳴海城(なるみじょう)、沓掛城(くつかけじょう)、大高城(おおたかじょう)などを手に入れ尾張進出の拠点作りに成功しています。ただし、本格的に攻め込むには力を蓄える必要があったのだと考えています。

このように今川義元が領国の経営に専念している間、織田信長も家督争いを制し、敵対する勢力を駆逐してその勢力を大きく拡大したのです。予想を遥かに超えるスピードで尾張をまとめてしまった信長の軍事的能力は義元にとって大きな誤算であり、桶狭間の戦いの悲劇につながっていきます。

8、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)今川義元と織田信長の兵力

1560年になると力を蓄えていた今川義元がついに動き出します!自ら大軍を率いて尾張に向け出陣したのです。三河、遠江の国人を先陣とする今川軍の兵力は4万5千とも6万ともいわれています。

この先陣の中には成長した竹千代(松平元康)や遠江の国人 井伊直盛(いいなおもり)の姿もありました。

今川の兵力は史料によって開きがあり、「信長公記」では4万5千としています。

太閤検地による石高を参考にすると、駿河国は15万石、遠江国は25万石、三河国は29万石なので、三国の合計は約69万石となります。

1万石あたり3百の兵士を動員できるとすると、2万7百となります。

義元の時代は貫高制なので、太閤検地の石高をそのままあてはめることはできませんが、だいたいの目安にはなります。

甲相駿三国同盟により背後の心配がないとはいえ全軍を率いて出陣するわけにはいきませんから、駿河の守りや要所に兵を配備することを考えると、2割程度は割り引く必要があります。

義元は年貢以外にも安倍金山(あべきんざん)など鉱山からの収入もあり、出兵に際しては入念に準備をしていることから、1万5千~2万の兵を率いることは可能だったと考えています。

一方、織田信長の兵力はどのくらいだったのでしょうか?

「信長公記」では信長の兵力を2千と記しています。

太閤検地では尾張国の石高は57万石もあり、尾張国はとても豊かな大国であることがわかります。

1万石あたり3百の兵士を動員できるとすると、約1万7千となります。

信長は桶狭間の前年に尾張をほぼ統一していますが、支配して間もない尾張上四郡の統治は不安定だったと推測されるので、割り引いて考える必要があります。

また、美濃には信長に敵対する斎藤義龍(さいとうよしたつ)が健在であり、これに対する備えも必要でした。

その一方で、義元に金山からの収入があったように、信長には津島湊から上がる収益がありました。この津島湊からの関税はとても大きく、信秀や信長の活動を支えた資金源だとされています。

これらを考慮すると、信長が桶狭間の戦いに投入できた兵力は1万前後だったと考えています。

ここで「信長公記」の2千という記述が問題となります。信長の研究をする上で「信長公記」は一級の史料であることは誰しもが認めるところです。信長に関する多くの書籍が「信長公記」をベースにして書かれています。

これほど信頼されている「信長公記」ですが、桶狭間の戦いが行われた年を天文21年(1552年)としています。

桶狭間の戦いは永禄3年(1560年)に行われたことはほぼ間違いがないので、この「信長公記」の記述には誤りがあります。

これまでは「信長公記」の著書太田牛一の勘違いだとされきましたが、近年の研究では意図的に改ざんしたのだとする説が有力になっています。

1552年という年は信長の父 信秀が死去した翌年にあたります。信長の力はまだ弱く、この年に桶狭間の戦いが行われたとすれば、信長の兵力が2千というのも納得できます。

「2千の兵で4万5千の今川軍を破る!」信長の活躍をより誇張するための改ざんだったのでは?と考えられています。

9、桶狭間の戦い 今川義元討死!

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)・今川と織田の城
*桶狭間の戦い

1万5千~2万の兵で尾張に進軍する今川義元!これを迎え撃つ織田信長の兵力はおよそ1万!兵の数では勝る義元ですが、自分の領地で戦える信長には地の利があります。義元にとってこの遠征は決して楽なものではありませんでした。

尾張に侵攻した義元はまず沓掛城に入ると、大高城に兵糧を届けるよう松平元康に命じます。

大高城と鳴海城は尾張国における今川軍の前線基地であったため、信長は丸根砦や鷲津砦、善照寺砦など多数の付城を築き今川勢の動きを牽制していました。

義元は兵糧を運び入れるという大役を果たした松平元康に大高城の守備を任せると、朝比奈泰朝(あさひなやすとも)に鷲津砦の攻撃を命じ、松平元康には丸根砦の攻略を命じます。

丸根、鷲津の両砦が攻撃を受けているという知らせを受けた信長は「敦盛」を舞い清州城から出陣すると、熱田神宮で先勝祈願をしたのちに善照寺砦に入り軍勢を整えます。

このとき信長の元に「義元が田楽狭間で休憩をしている」との報告が入ります。これを聞いた信長は2千の兵を率いて善照寺砦を出ると、迂回して義元の本陣近くにまで進出します。

この直後に天候が急変して激しい暴風雨となります。信長はこの機を逃すまいと義元の本陣目掛け突撃を敢行したのです。

雨風により信長の軍勢が直前にまで迫っていることに気づかなかった今川軍は、突然の急襲を受けパニックになり、義元を守っていた親衛隊は信長の兵によって次々に討たれました。

義元も服部小平太(はっとりこへいた)の槍を受けますが刀を抜き反撃をしています。

負傷した小平太にかわり毛利新介(もうりしんすけ)が義元に組み付き首をかき切ろうとします!

義元は毛利新介の指を噛み切る抵抗を見せますが、とうとう力尽き首を落とされたのです。

義元とともに討死した主な武将は、松井宗信(まついむねのぶ)、蒲原氏徳(かんばらうじのり)、由比正信(ゆいまさのぶ)、一宮宗是(いちのみやむねこれ)、井伊直盛(いいなおもり)、三浦義就(みうらよしなり)、久野氏忠(くのうじただ)、久野元宗(くのうもとむね)、松平政忠(まつだいらまさただ)です。

指揮官クラスの武将を多く失った今川軍は体制を建て直すことができず、ちりぢりになって領国に逃げ帰りました。

日本史上最大の逆転劇とされる桶狭間の戦いはこうして幕を閉じました。

織田信長の名を一躍有名にした桶狭間の戦いですが、その知名度とは裏腹に多くの謎が解明されないまま現在に至っています。

特に善照寺砦を出た後の信長がどのようなルートで義元の本陣にたどり着き、どのように攻撃を仕掛けたのかについては解明されていません。

多くの歴史家がこの謎を解くため研究をし自論を発表しています。

ここでも紹介した「迂回奇襲説」が一応通説となっていますが、その迂回説にもいくつかの説があり、さらに「正面攻撃説」や「乱取り説」など、通説とは違う考え方も発表されています。

どの説も納得できる部分と疑問に思う部分があり、新たな史料の発見などがない限り結論を出すのは難しい状況です。

10.桶狭間の戦い後の今川家「三州錯乱」「遠州忩劇」

桶狭間の戦いで義元を失った今川家のかじ取りは、義元の嫡男 氏真に任されますが、三河や遠江の国人衆たちは 氏真を見限り離反していきました。

氏真に武将としての資質がなかったこともありますが、桶狭間で多くの兵が討死してしまったことが大きな要因となっています。

桶狭間の戦いの今川軍の戦死者は「2200」「2500」「3千余り」「3907」「1万」など史料によって異なります。これらの史料の数をそのまま鵜呑みにはできませんが、大きな損害がでたのは確かです。

戦国時代の合戦では1割の死傷者がでると機能不全になり戦いを続けることは困難とされています。当時の兵士の多くは農民なので、農民の死傷者が増えれば働き手を失い、領国の統治に深刻なダメージを与えます。

戦後、松平元康が義元の弔い合戦を進言しますが、氏真は動こうとしなかったという逸話が残されています。

多くの兵を失った今川家では、領国の支配体制を再構築する必要があり、尾張への再遠征などできる状況ではなかったと思われます。

桶狭間で活躍を見せた松平元康は今川からの独立を決断します。このとき元康から家康に改名していますが、義元の諱「元」を捨て今川との決別を宣言したのです。松平家康は織田信長と手を結び三河での支配を広げていきます。

この動きをみた甲斐の武田信玄は、今川との同盟を破棄して三河の家康と手を結ぶと、信玄は駿河に、家康は遠江にそれぞれ侵攻を開始します。氏真は家康と信玄の裏切りを「三州錯乱(さんしゅうさくらん)」「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼び避難しますが、彼らの勢いを止めることはできず領土を侵食されていったのです。

氏真は北条氏を頼り落ち延びると、その後は家康、秀吉の庇護を受け、江戸時代には家康から500石を与えられ1615年江戸で死去しました。子孫は高家として江戸時代を生き残り明治維新を迎えました。

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