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会津戦争(鶴ヶ城籠城戦)八重の証言

会津若松城(鶴ヶ城)
*攻撃を受けた鶴ヶ城


鶴ヶ城籠城戦については、生き残った人たちが貴重な証言を残しています。八重も「婦人世界」「新島八重子刀自の談片」「新島八重子刀自懐古談」でこの戦争について証言をしています。


「婦人世界」は、実業之日本社から発行された女性雑誌で1906年1月に創刊されました。八重の記事は「1909年11月婦人世界四巻十三号」に掲載されています。


「新島八重子刀自の談片(1928年)」「新島八重子刀自懐古談(1932年)」については、鶴ヶ城籠城戦から60年も経過していることから、思い込みや記憶違いも懸念されますが、当時の状況を知ることのできる貴重な史料といえるでしょう。


八重の証言を中心に鶴ヶ城籠城戦を振り返ってみます。


1868年8月23日新政府軍が鶴ヶ城下に侵攻します。この日、自害をした会津藩士の家族は230名にも達し、藩士のみならず多くの領民を巻き込み会津全土が戦場と化したのです。戦える藩士の多くは国境防衛の任についていたため、城内には老人、子ども、女性が目立ったといわれています。


山本家では、八重の母佐久と兄嫁のうらが「足手まといになるので城内には入らずに他の場所に避難しよう」と主張しますが、八重は決死の覚悟で入城するとして譲らなかったそうです。そんな時、入城のおふれを伝えに来た侍が「婦人の手が必要なので、城中に入って手伝ってください」と言ったため、家族で入城することを決めます。


八重は鳥羽・伏見の戦いで戦死した弟三郎の形見である着物を着用し、兄から譲り受けたスペンサー銃を担ぎ男装して入城するのです。「一は主君のため、一は弟のため、命のかぎり戦う決心をして入城しました」と語っています。八重たちが入城した直後に不審者三名が三の丸に忍び込んだところを捕らえられます。訊問の結果、上方弁だったので敵の間者だと断定され首をはねられ晒されたそうです。


鶴ヶ城籠城戦では、足手まといになると思われていた女性が大いに活躍します。女性の主な役割は兵糧の炊き出し、けが人の看病、弾丸づくりでした。城内には5000人を超える人が籠城していたため、兵糧の炊き出しは大変な作業だったそうです。


大きな釜をいくつも並べ、玄米を炊いておにぎりをつくっていきます。炊き上がったばかりの熱い玄米を次から次に握るため手の皮が剥け、火傷のような状態になったそうです。鶴ヶ城にはわずかな兵糧しか蓄えがなかったため、玄米が少なくなってくると女性は道明寺粉を食べました。


道明寺粉は、蒸したもち米を乾燥させ粗引きにした保存食です。その道明寺粉もカビがはえていたようです。平時では口にすることをためらうような食料も非常時だから食べられたのでしょう。夜になると城外の畑に大根をとりにいく婦人もいたそうで、敵兵に見つかれば殺される可能性があり、まさに命がけの仕事でした。


八重は断髪して男装姿になっていたため、城内では三郎さんと呼ばれていたそうです。父や兄から銃や大砲の撃ち方、砲弾、銃弾の仕組み、つくり方を学んでいたため自ら志願して戦闘にも加わります。銃撃戦だけでなく夜襲にも参加をし、容保の御前で敵が打ち込んだ砲弾(四斤砲)を分解してその仕組みを説明したこともあったそうです。


新政府軍の砲撃は激しさを増し、城内にもたくさんの砲弾が打ち込まれました。新政府軍が大砲を発射したときの音や飛んでくる砲弾を目視して数をかぞえていた人が城内にいたようです。一日で1208発、また別の日にはおよそ2500発もの砲弾が放たれたそうです。「月見櫓にいた老人が新政府軍の発した砲弾数を黒い点を打ってかぞえていたそうで1208発あったということでした。」と「新島八重子刀自の談片」で語っています。


鶴ヶ城に籠城した八重やその他の女性たちは、いざというときには自害する覚悟であったため、死ぬことを恐れてはいなかったそうです。あらかじめ介錯してくれる人を決めていたとも話しています。そんな気丈な女性たちが最も心配したのが厠(かわや)でした。「厠に入っているときに敵の砲弾を受けたら婦人として最も恥ずべき醜態を晒さなければならないからです。」と八重は話しています。


鶴ヶ城開城の前日には「明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」という腰折れを一首よみましたと証言しています。また、「開城当日城内にいた会津勢は全員三の丸へ移されると、新政府軍が【イヤー】という大声をあげながら入城してきたため、無念、残念の思いが強く、音のする方向をにらみながら切歯扼腕(せっしやくわん)したのであります。」とも語っています。


15歳以上60歳未満の男性は猪苗代で謹慎、婦女子および15歳未満、61歳以上の男性は御構いなしと決まりますが、八重は戦死した弟の名前をつけ三郎と名乗り男装していたため、猪苗代に送られます。猪苗代に行く途中、新政府軍の雑兵が八重を見て「女朗(めらう)が居る」と言ってついてきたので、うるさくてしかたなかったと述べています。


八重がその後どうなったか証言がないのでよくわかりませんが、女性であることがばれてしまい会津に戻されたのでしょう。八重と家族は、知人である米沢藩士 内藤新一郎宅に身を寄せることになります。

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