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高松城水攻め

備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)

鳥取城を落城させた羽柴秀吉、黒田官兵衛は伯耆国(ほうきのくに)にも侵攻する勢いをみせますが、因幡と伯耆の国境付近には吉川元春率いる軍勢が決死の覚悟で陣をひいていました。


無理な戦いを避けた秀吉はまだ服従していない因幡国の国人衆の砦や城を攻めこれを降伏させます。因幡国の制圧に成功した秀吉はいったん姫路に帰還します。


1582年3月織田信長配下の武将滝川一益の猛攻を受けた甲斐の武田勝頼は天目山で自刃し武田家が滅亡します。東の脅威であった武田を滅ぼしたことで信長は毛利攻めに本腰を入れることになり、秀吉に備中侵攻を命じたのです。


秀吉の次の目標は高松城に決まります。高松という名を聞くと香川県の高松を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。秀吉と官兵衛が攻めた高松城は香川県の高松ではなく、現在の岡山県岡山市北区高松に存在した備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)です。


備中高松城は宇喜多氏が治めていた備前国との国境付近に位置していました。織田と敵対していた宇喜多直家は荒木村重の有岡城が落城する前後に、毛利から織田へ寝返っていたため、秀吉は播磨国から備前国を通り備中国までなんなく進行することができたのです。


備中高松城は毛利家譜代の家臣 清水宗治(しみずむねはる)が城主をつとめ城内には5000の軍勢が臨戦態勢を整えていました。


高松城は平野に建つ平城のため一見すると容易に攻略できそうに思えますが、三方を山に囲まれたており城の周囲には低湿地帯が広がり、この湿地が天然の堀としての役割を果たしていました。さらに、城へ通じる細い道が一本通っているだけなので大軍で攻込むことができず、見た目よりも攻めにくい堅牢な城だったのです。


1582年3月秀吉は宇喜多の援軍も合わせ3万の軍勢をもって備中に侵攻!高松城へ使者を送り、備中一国を与えるという条件を提示して織田に味方するよう交渉を行いますが、宗治はこれをきっぱり断ります。さらに、黒田官兵衛を使者として高松城に送り再度説得にあたらせますがこれも失敗!


調略が失敗したことで高松城攻めが本格的に開始されます。秀吉は力攻めを行いますが、湿地帯に足をとられ難儀しているところに城内からの激しい攻撃を受け大きな損害を受けることになります。


毛利本軍との決戦に備えできるだけ兵力を温存したい秀吉は力攻めを止め、高松城周辺にある支城の攻略にとりかかります。高松城には7つの支城があったとされていますが、これらの城を次々落とし高松城を孤立させることに成功します。


秀吉は三木城や鳥取城のように兵糧攻めを考えますが、毛利による高松城への兵糧搬入を防ぐには付城や砦をいくつも築かなければならず、実行するには相当の時間が必要になります。


秀吉は何か良い策はないかと官兵衛に相談をすると、官兵衛は水攻めを進言するのです。高松城の西にある足守川をせきとめ堤防を築き増水した水を一気に城に流し込むという作戦でした。


この水攻めを考案したのは官兵衛であるとする説が一般的ですが、秀吉が考え官兵衛に実行させたとする説もあります。水攻めを成功させるには大堤防を短期間でつくる必要がありました。


官兵衛は土嚢と米(銭)を交換すると周辺の農民に呼びかけます。このときの交換率は土嚢ひとつに対し米一升または銭100文という当時としては破格な条件であったため農民たちはこぞって土豪を官兵衛のもとに運びました。


この官兵衛の機転と突貫工事によりわずか12日という短期間で、足守川の取水口から蛙ヶ鼻(かわずがはな)に至る長さ4キロ、高さ7メートルの堤防が完成したのです。


この堤防工事に活躍したのが官兵衛の家臣で黒田二十四騎のひとり吉田長利でした。足守川は水の勢いが強く土嚢や石だけではせきとめることができませんでした。そこで長利は石を積んだ船30艘を足守川に浮かべ船底に穴を開けて沈めることを発案します。この案は見事にはまり川のせきとめに成功するのです。


堤防により足守川の水は高松城へと流れ込みます。梅雨の時期ということもありしだいに水かさが増しやがて高松城は水に浮かぶ城のような状態になったのです。城内の兵は浸水していない場所に移動するも、5000人を超える大人数であったため寝る場所にも困る状況となり、さらに米蔵も水につかり備蓄していた兵糧米の多くを失うことになったのです。


高松城を救うべく毛利も動きます。当主である毛利輝元自ら出陣し総勢4万を超える大軍で備中に向かい秀吉軍と相対しますが、水の中に孤立した高松城を目の前にして何もできない状況でした。


食糧も休む場所もない状況に高松城の兵士たちは疲労困憊!これ以上水かさが増せば兵士たちは溺死してしまう!清水宗治は自分の命と引き換えに城兵を救うよう毛利本隊に書状を送ります。


これまでも秀吉と毛利の間では和議の話し合いが何度か行われていましたが、条件面(領土の割譲や清水宗治の切腹など)で折り合わず締結には至っていませんでした。それが6月3日になって秀吉側が条件を緩和してきたのです。


宗治の切腹はそのままでしたが、領土の割譲を7カ国から3カ国へと大幅に緩和したのです。忠臣である宗治の命を何とか救いたい毛利でしたが、信長本隊が備中に到着すれば講和の機会はなくなると考えやむなく秀吉の条件を受け入れるのでした。


実は前日の6月2日に京都本能寺において織田信長が明智光秀の謀反にあい自害!この大事件の一報を受けた秀吉は毛利に知られる前に何としてでも和議を結び、逆臣光秀を討ち果たさなければならなかったのです。


6月4日小船に乗った清水宗治、宗治の兄 月清入道、末近信賀、難波伝兵衛の4名が切腹!宗治の家臣 国府市正(こういちまさ)が介錯を行い、その後 市正は自刃して果てます。


宗治は船上でひとさし舞ったのち腹を十文字に切り散っていきます。後年、秀吉は宗治の見事な死に様に「宗治は武士の鑑である」と賞賛を送り小早川隆景の家臣となっていた宗治の子 景治(かげはる)に対し1万石で大名にすると勧誘しますが、景治はこれを固辞します。


その後、景治は毛利本家の家臣となり家老に次ぐ要職の地位を与えられ毛利本家を支えるのです。

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