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大坂城での軍議 対立する真田信繁と大野治長(おおのはるなが)

大坂の陣 譜代、七手組、五人衆(牢人衆)

大坂冬の陣で豊臣方の兵力は10万~13万といわれていますが、豊臣恩顧の大名はひとりも入城せずにそのほとんどが食いつめ牢人でした。

大坂方の兵力の内訳は、
・大野治長(おおのはるなが)を中心とする豊臣家の親族、譜代家臣。
・七手組と呼ばれた豊臣秀頼の馬廻り衆(速水守久、堀田盛高、中島氏種、野々村幸成、青木一重、伊東長実、真野助宗)
・真田信繁など、五人衆を中心とする牢人衆。

大坂方の実質的な司令官は、譜代家臣 大野治長です。大野治長は淀殿の乳母大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)の嫡男です。大野治長は1569年生まれとされているので、1567年生まれの信繁より2歳下になります。


豊臣秀吉の馬廻り衆となり、秀頼誕生後は秀頼の側近として仕えました。治長に関する史料はほとんど残っていないので、どの程度の実戦経験があったかは不明です。


城内で行われた軍議には、牢人衆の代表として真田信繁など五人衆も参加をしています。

大坂の陣に関する史料としては「幸村君伝記」「大坂御陣山口休庵咄」「当代記」「武将感状記」「真武内伝」「列祖成績」「大坂両陣日記」などがあげられます。


大坂城内で行われた軍議についてもいくつかの史料に記載があります。その中で一番詳しい記述がある「幸村君伝記」から内容を抜粋します。

まず大野治長が自分の作戦を述べます。
関ヶ原のとき徳川家康の出馬が遅れた。家康は耳臆病な大将であり、豊臣方の大軍が兵を挙げれば家康は仰天するだろう。


出陣しても諸大名の動静が気になりすぐには戦をしかけてこない。家康の臆病心が覚めない間に片桐且元の茨木城を攻撃して落とし、京に進軍して京都所司代板倉勝重を討つ。

この作戦に対し信繁が反論します。

家康は臆病者だから関ヶ原と同じく、今度の戦でも出陣が遅れるだろうとする治長の考えは浅はかである。


関ヶ原は日本の大名が東西に分かれ、徳川に味方した者の中にも石田に同心した者や敵側についた親類縁者もいた。


日和見していた大名もおり、家康は時間をかけてそれらの大名の動向を観察していたのである。関ヶ原後には両将軍(家康と秀忠)の威光は高まり、多くの大名や民衆から信頼を得ている。


味方の行動が緩慢であれば、家康が宇治・瀬田をこえてしまう。相手を勢いづかせてしまえば味方は不利になると説きました。


治長と信繁はその後も持論を展開し激しい議論となります。両者の間に割って入ったのが後藤又兵衛でした。


又兵衛は、自分と信繁に1~2万の兵を預けてくれれば、宇治・瀬田に出陣して石部の宿を焼き払い、橋と船を破壊して徳川軍の進軍を遅らせてみせると述べます。さらに、敵陣に間者を潜り込ませて不安を煽ることで東国勢の士気を落とす。


次に木村重成か治長のどちらかが兵を率いて京都所司代 板倉勝重を攻める。敵を分断させて合戦にのぞめば宇治・瀬田を死守することができる。


そして、大和口には明石掃部、長宗我部盛親らを遣わして押さえとし、茨木城には七組の衆のうちの一人か二人に軍勢を預けて攻撃を行い、大野治房、仙石秀範のうち一人が大津近辺に出張して大坂城の兵を従え手薄なところに助成すれば、敵方は人馬ともに疲弊してやがて戦意を喪失する。と主張したのです。


これらの反論に対し治長は、「なぜ宇治・瀬田で戦うのか?」を問います。


これに対し信繁は「先んずれば人を制す」という「史記」の言葉を引用して、国中、境目の取り合いや後詰が期待できるときは籠城戦に利がある。しかし、今度の戦は日本中の軍勢が一カ所に集結して行われるため、心をひとつにして積極的に打って出る必要がある。


計略を用いて敵を攪乱し、長期戦に持ち込み相手を疲弊させることで勝利をつかみとるしかないと述べます。


信繁は大軍で城を包囲されれば、いかに難攻不落の大坂城でも持ちこたえることは困難だと考えたのです。さらに、籠城戦になれば弾薬、矢、食糧はやがて底を尽き、味方の士気は低下し裏切る者や降伏する者があらわれる。


こうなってはもはや勝ち目はない。積極的に城から出て戦うことで味方の士気を高め、自軍が有利になるような噂を流せば豊臣に寝返る大名もでてくる。もし、命の限り戦っても命運が尽きたときは、潔く自害することが武士の面目であると主張したのです。


このように軍議の席では、籠城策と積極策が対立してなかなか結論がでなかったとされています。最終的に信繁、又兵衛の意見は退けられ籠城策がとられました。信繁は大坂城の弱点であった南側に真田丸を築き徳川勢を迎え撃ったのです。


別の史料には積極策を提案した信繁に対し、又兵衛は籠城策を支持したことが記載されています。また、積極策を提案した信繁と又兵衛に対し、小幡景憲(おばたかげのり)が大いに反論したとする史料もあります。


小幡景憲は、武田家に仕えた兵学者で、甲州流軍学の創始者とされています。著名な軍学者であった景憲は豊臣家から信頼され、軍議の場にも参加していましたが、実は家康が送り込んだスパイであり、豊臣に不利な籠城戦を主張したのだと記載しています。


ただし、この話しは一部の史料にしか掲載されておらず、景憲が本当に大坂城に居たのかも不明です。


北条氏が小田原城に全幅の信頼を置いていたように、秀頼と淀殿も秀吉が築いた難攻不落の大坂城に絶対の自信を持っていたのではないでしょうか。


軍資金は豊富にあり、兵糧も1~2年分は準備していたようなので、親類衆や譜代家臣も含め、豊臣家の首脳にとって籠城戦は既定路線であり、信繁や又兵衛がいかに積極策を主張しようとも、籠城策を覆すことができなかったのだと推測されます。

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