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大坂の陣と牢人五人衆(真田 長宗我部 毛利 後藤 明石)

1614年11月 九度山を脱出した真田信繁は大坂城に入城します。大坂にはすでに豊臣に味方をする牢人衆が多数集まり、その数は10万を超えていたとされています。


しかし、豊臣秀頼と淀殿が頼りにしていた豊臣恩顧の大名の参陣はなく、譜代家臣と牢人衆で戦うしかありませんでした。牢人衆の中には元大名やその子弟、大名家の重臣など、身分の高い者や戦において兵を統率する能力のある人物が数人いました。


これらの人物を三人衆また五人衆といいます。三人衆とは旧大名の真田信繁、長宗我部盛親、毛利勝永の三人をあらわし、そこに黒田家の重臣 後藤又兵衛と宇喜多家の重臣 明石全登が加わり五人衆と称されました。


信繁以外の四人について、大坂の陣に至るまでの簡単な経歴を紹介しておきます。

■長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)・・・長宗我部盛親は、土佐国の大名長宗我部元親の四男です。元親の嫡男 信親は戸次川の戦いで戦死。兄二人は香川家と津野家を継いでいたこともあり、元親の意向で四男の盛親が家督を継ぐことになります。


元親が1599年に亡くなると、翌年に関ヶ原の戦いが起こり、盛親は西軍として関ヶ原の本戦に参加します。六千の兵を率いて南宮山に陣取った盛親ですが、徳川家康に内通していた吉川広家軍に道をふさがれたため、戦いに参加することができずに敗走しました。


土佐に戻った盛親は家康に恭順の意を示し所領の安堵を願いますが、その際に家臣の讒言によって兄津野親忠(つのちかただ)を殺害する事件を起こします。これにより長宗我部家は改易となりました。


牢人となった盛親は、京に住み子供たちに読み書きを教えて生計を立てていたようです。徳川家康と戦う覚悟を決めた豊臣秀頼は、土佐一国を与える条件で盛親を誘ったとされています。


盛親はこの誘いを受けると、京都所司代板倉勝重の監視をかいくぐり大坂城に入城しました。盛親から連絡を受けた長宗我部の旧臣が馳せ参じ盛親の軍勢は千人を超えます。長宗我部家は改易となっていたため、主家再興を願い多くの家臣が駆けつけたのです。


■毛利勝永(もうりかつなが)・・・毛利勝永は名前こそ知られていませんが、大坂の陣において真田信繁に勝るとも劣らない活躍を見せた武将です。


勝永は1578年毛利吉成(もうりよしなり)の嫡男として誕生しました。吉成は尾張出身とされ、元々の姓は森であったようです。信長に仕えたのち、秀吉の黄母衣衆となります。


九州征伐(島津征伐)で軍功をあげた吉成は豊前国二郡を与えられ6万石の大名となります。ちなみに豊前国は8郡あり、残りの6郡12万石を与えられたのが黒田如水です。


吉成は豊前の国人一揆鎮圧後に毛利に改姓しました。関ヶ原の戦いでは西軍側となり、吉成は九州で調略活動を行い、勝永は毛利家の兵を率いて伏見城、安濃津城攻撃に加わります。


関ヶ原本戦では、南宮山に陣を敷いたと推測されますが、はっきりしたことはわかっていません。小倉城に居た吉成は関ヶ原での敗戦を聞くと、黒田如水の軍に降伏して開城しました。毛利家は改易となり、山内家に預けられ土佐送りとなりました。


山内一豊と毛利吉成はともに豊臣秀吉の古参家臣で親交がありました。また、吉成は関ヶ原のおり一豊の妻に危害が加えられないよう保護したとされています。そのため一豊は毛利親子を好待遇で土佐に迎え入れました。


1611年に吉成は死去しますが、勝永はそのまま土佐で蟄居生活を送っています。1614年勝永の前に豊臣秀頼の使者が現れます。秀頼の使者は小倉の町人になりすまし勝永の屋敷を訪れると、秀頼からの密書を渡し大坂方につくよう依頼します。これを受けた勝永は土佐を脱出して大坂城に入城しました。


■後藤又兵衛(ごとうまたべえ)・・・本名は後藤基次(ごとうもとつぐ)で、通称が又兵衛。後藤又兵衛の出自についてはよくわかっていないのですが、又兵衛の父は東播磨で勢力を持っていた別所氏に仕えていたようです。


何らかの事情で播磨御着城主小寺氏の元に身を寄せていましたが、父が死去した後に小寺氏の家臣であった黒田官兵衛に引き取られ養育されます。


又兵衛の伯父藤岡九兵衛が黒田官兵衛と敵対したため、又兵衛も黒田家を去りますが、その後黒田長政によって取りたてられ、再び黒田家の家臣の列に加わると、戦場において数々の武功を上げました。


長政が関ヶ原の論功行賞で筑前一国52万石の領主になると、益富城(ますとみじょう)を与えられ1万石(もしくは1万6千石)の禄高を得ます。


しかし、黒田家と敵対していた細川家と書状のやり取りをしていたことが原因で長政から咎めを受けると、以後長政との間に確執が生じ1606年に出奔してしまったのです。


黒田家を去った又兵衛は細川家や池田家の庇護を受けますが、長政の奉公構(ほうこうかまえ)により仕官することができずにいました。


「奉公構」とは、出奔した家臣が他家に再仕官ができないよう働きかけを行うことをいいます。仕官が叶わず苦しい生活を続けていた又兵衛の元に豊臣秀頼から勧誘があり大坂城に入城しました。


■明石全登(あかしたけのり/あかしぜんとう)・・・明石全登は、備前国の戦国大名浦上氏の家臣 明石行雄の嫡男です。


浦上氏が滅亡すると宇喜多氏に仕え、その後の功績により重臣の列に加わります。父から家督を継いだ全登ですが、1599年に宇喜多家でお家騒動が起こります。


当主宇喜田秀家と重臣との間に確執が生じ、宇喜田家を支えてきた重臣や譜代家臣の多くが宇喜多家を去ります。


全登よりも上席にいた重臣たちがいなくなったことで、全登が宇喜多家を率いることになったのです。豊臣秀吉から加増を受けた全登は、大名並みの10万石の禄高となりました。


主君秀家は関ヶ原の戦いにおいて西軍の主力部隊の一翼を担います。全登は宇喜田軍の先鋒を務め東軍の福島正則軍と激しい戦いを展開しますが、小早川秀秋の裏切りにより敗れました。


全登は秀家を戦場から逃がすために殿(しんがり)を務め、自身も戦場から退却をして行方をくらませます。戦後は黒田官兵衛の元に身を寄せていたとされていますが、詳細については不明です。


熱心なキリシタンであった全登にとって、禁教令を発しキリスト教徒を迫害する徳川幕府は敵であり、信仰上の立場から大坂方についたとされています。

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