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北条討伐 北国軍に加わった真田昌幸

真田昌幸(北国軍)北条討伐侵攻ルート
*真田昌幸(北国軍)北条討伐侵攻ルート


徳川家康からの知らせで名胡桃城(なぐるみじょう)事件を知った豊臣秀吉は烈火のごとく怒ります。


秀吉は1587年12月に大名間の私闘を禁じた「関東・奥羽惣無事令」を発していました。


この「惣無事令」は関白となった秀吉が天皇の名代として発した命令であり、これに反する行為は天下への反逆と位置づけ討伐の対象としたのです。


氏政、氏直の上洛がいまだ実現していない中での暴挙に秀吉は北条討伐を決断します。


秀吉は大谷吉継を徳川家康のもとに派遣して北条を討つことを伝え協力を要請します。さらに、公卿の今出川晴季(いまでがわはるすえ)に命じて宣戦布告状の草案を作成させるのです。

・度々の上洛命令にも従わず、公儀を軽んじた行為を許したのは家康のとりなしがあったからである。
・沼田領問題を裁定したにもかかわらず上洛をしなかった。
・約定を反故にして名胡桃城を奪ったことは大罪である。
・関白秀吉が天道に背いた北条を勅命によって征伐する
・来年に出陣して氏直、氏政の首をはねる

この宣戦布告状は全国の諸大名にも届けられ、天道に逆らった北条に天罰を与えるための戦いであるとして出陣を命じたのです。


5カ条からなる宣戦布告状は、1589年11月24日付で北条氏直に送られました。これを受け取った氏直は、秀吉の家臣 津田盛月(つだもりつき)と富田一白(とみたいっぱく)に弁明書を送り、「名胡桃城の一件については自分は知らなかった」と弁解します。


さらに、重臣の石巻康敬(いしまきやすまさ)を上洛させ「名胡桃のことは北条の感知しないことであり、猪俣が勝手にやったことです」と重ねて弁明したのです。


もちろんこのような言い訳を秀吉が受け入れるはずもなく、康敬は帰路の途中 沼津で捕らえられ駿河三枚橋城に抑留されます。康敬が解放されたのは小田原城が開城したあとのことです。


名胡桃城事件に関して、北条宗家がどの程度関わっていたのかは不明ですが、沼田城代 猪俣邦憲が勝手に行ったとする氏直の言い分には無理があります。


もし本当に猪俣が単独で行ったのなら、猪俣の首を差し出し名胡桃城を真田に返還したはずです。そうしなかったのは、猪俣の主である氏邦や主戦派の氏政、氏照が事件に関与していたからではないでしょうか。


北条家では恭順派が秀吉との交渉を行う一方で、主戦派が戦に向けて大がかりな準備をしていました。堅城であった小田原城をさらに改修して高い土塁と深い空堀を築き、城と城下町を大外郭で囲う惣構を構築します。


また、秀吉の大軍を迎え撃つ際の拠点となる足柄城、山中城、韮山城、八王子城、鉢形城、松井田城などにも改修を加えています。さらに領民に対し徴兵を行い兵力を大幅に増員しました。


秀吉もまた、名胡桃城事件が起こる前に、すでに長束正家に命じて兵粮の準備をさせています。なかなか上洛しない北条に対し、いつでも討伐できる準備をしていたのです。


そんな中で起きたのが名胡桃城事件でした。


弁明が聞き入れられないと悟った氏直は、秀吉と一戦する覚悟を決め12月8日に領内に出陣の命令を通達します。


秀吉も12月10日に聚楽第で家康、前田利家、上杉景勝らと軍議を行い、小田原攻めの作戦を練ります。


秀吉率いる本軍と前田利家と上杉景勝率いる北国軍の二手に分け、本軍の先鋒を家康が担当することで決定しました。


1590年2月7日、徳川家康は酒井忠次、本多忠勝、榊原康正、井伊直政、鳥居元忠らを先陣部隊として出陣させ、家康自身も10日に駿府を発っています。


20万を超える秀吉の軍勢を迎え撃つ北条の作戦はどのようなものだったのでしょうか。


北条氏邦は箱根山を超えさせないことが重要であり、黄瀬川、富士川まで出陣して集結した秀吉軍に先制攻撃を仕掛けるべきだと主張しますが、この積極策は受け入れられずに、天然の要害である箱根山と街道口にある山中城、韮山城、足柄城で秀吉軍を防ぐ案が採用されたのです。


上杉謙信や武田信玄の大軍も籠城戦で退けた過去の成功体験が足を引っ張ることになります。いかに北条氏が箱根山と小田原城に全幅の信頼を寄せていたのかがわかります。


3月27日沼津に着陣した秀吉は29日に大軍を投入して山中城と韮山城を同時に攻めます。山中城には6万5千、韮山城には4万5千という大軍で一気に攻めかかり、激戦の末 山中城を落とします。


要である山中城をわずか半日で落とされた北条軍は緒戦から劣勢に立たされます。秀吉軍は次々に箱根山を超えあっという間に小田原城を取り囲んでしまったのです。


秀吉は小田原城を包囲すると北条方の城を個別に撃破していきます。蟻の這い出る隙もないほど厳重に囲まれた小田原城では救援の兵を送ることもできず、味方の城が陥落していくのを黙って見ているしかなかったのです。


別働隊である北国軍に加わることになっていた真田はどうしていたのでしょうか?


真田昌幸は、信繁とともに上田に戻り出陣の準備に取り掛かります。秀吉は昌幸に2月中に出陣するよう命じていました。


昌幸は信幸、信繁とともに3千の兵を率いて上田を出発し前田、上杉の軍と合流して上野に侵攻しています。


3月下旬には北条の重臣 大道寺政繁の居城松井田城の攻略に取り掛かります。政繁は北条氏政、氏照、松田憲秀とともに徹底抗戦を叫んだ主戦派のひとりです。政繁は攻め込んでくる北国軍を迎え撃ち頑強に抵抗します。


北国軍は松井田城の周囲にある支城を先に攻略してから、再度松井田城に攻撃を仕掛けたのです。


圧倒的な兵力の差にもかかわらず何とか持ちこたえていた松井田城ですが、小田原城からの援軍がなくついに降伏してしまったのです。


前田利家は投降した大道寺政繁を許し命を奪いませんでした。助命された政繁は、その後北国軍の道案内役をつとめ八王子城の攻撃では先鋒隊として攻撃軍に加わりますが、重臣にもかかわらず北条を裏切った政繁を秀吉は許さず小田原城開城後に切腹させています。


真田信繁の初陣には諸説ありますが、この松井田城攻めを初陣とする説があります。


松井田城を1か月で開城させた昌幸たち北国軍は、北条氏邦の家臣 垪和信濃守が守る箕輪城を即日で降伏させます。


武蔵国に侵攻した北国軍は河越城、松山城と北条方の城を次々に開城させます。さらに、北条氏邦の居城 鉢形城を大軍で取り囲んだのです。


鉢形城は北条が北関東の拠点と位置づけた堅牢な城であったため、秀吉は北国軍の他に浅野長吉(長政)、本多忠勝、鳥居元忠らの軍勢も投入し3万5千の兵で攻めます。


圧倒的な兵力を持つ秀吉軍は鉢形城を囲み、四方から一気に攻撃を仕掛けたのです。真田昌幸は城の北側から攻め込んだようです。


氏邦たちは激しく抵抗し1か月間に渡り戦いますが、とうとう力尽き6月14日に降伏します。


6月23日になると北国軍は北条氏照の居城八王子城に大挙して押しかかります。


秀吉の命令で力攻めを行いわずか一日で八王子城を落城させました。城内にいた多くの婦女子が滝に身を投げ犠牲になったと伝わっています。


7月5日 北条氏直は小田原城を明け渡し降伏したのです。

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