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真田昌幸の策略 上田城築城と小県の統一

上田城(尼ヶ淵城)築城と小県の統一 真田の城
*上田城(尼ヶ淵城)築城と小県の統一 真田の城

1582年は真田家にとって運命を変える年になりました。主家である武田の滅亡、その3ヶ月には武田を滅ぼした織田信長が本能寺の変で横死します。


真田昌幸は生き残りをかけ、織田、北条、上杉と次々に主をかえますが、弟の真田信伊(さなだのぶただ)と依田信蕃(よだのぶしげ)の説得を受け徳川につくことを決めます。


徳川方となったことで本領を安堵された昌幸ですが、わずか1ヶ月後に徳川と北条が和睦をします。その和睦の条件に真田の領地である沼田領と吾妻領を北条に割譲するという文言がおりこまれていたのです。


これを知った昌幸は憤慨します。本領を守りきるには独立するしかない!と考えた昌幸は、徳川に従いながらも領土の防衛を固めていきます。


1583年になると昌幸はまず地盤である小県の統一に向けて動き出します。これまでも昌幸は小県の盟主的な存在ではありましたが、真田の統治に反対する勢力もいました。昌幸はまずこれら反対勢力を一掃すべく出陣します。


反対勢力との間で戦が行われますが、徳川の力を借りた昌幸が勝利して小県の国人をまとめたのです。さらに、虚空蔵山城(こくぞうさんじょう)の目と鼻の先に新たな城を築城する計画をたてます。これがのちに真田の本拠地となる上田城です。


虚空蔵山城は、真田と同じ滋野(海野)一族である会田氏の城でした。天正壬午の乱で会田氏は上杉につきますが、徳川方となった小笠原氏によって攻められ没落したと伝えられています。


昌幸は、徳川、上杉の紛争地帯となっていた虚空蔵山城のすぐ近く尼ヶ淵(あまがふち)に上田城を築いたのです。城の南側に千曲川の分流が流れ、地元の人はこの一帯を尼ヶ淵と呼んでいたことから、上田城は尼ヶ淵城とも呼ばれました。


尼ヶ淵は小県郡の中央に位置していることから、この地に本拠地となる城を築くことで小県郡の統治者であるという意思をあらわしたのです。


昌幸は城を築くにあたり徳川家康に助力を願い出ています。築城するには巨額の費用や敵方からの妨害など様々な困難が伴います。昌幸はこれらの問題の解決にも家康を利用しました。


家康にとっても、北信濃に勢力を持つ上杉景勝に対抗するためには真田の協力が必要であり、対上杉の前線基地としての役割を持つ上田城の築城を了承しこれを支援をしたのです。


昌幸が築いた上田城はどのような姿をしていたのでしょうか?当時の上田城を記録した史料がほとんど残っていため、城の構えや天守の存在などは不明です。


昌幸の上田城は、関ヶ原の戦い後に徳川の手によって破却されますが、江戸時代になると真田にかわり上田藩主となった仙石忠政(せんごくただまさ)が大改築を行います。現在の上田城跡には、江戸時代に作られたと思われる3つの櫓(北櫓、南櫓、西櫓)が残っています。


北条と和睦したことで、甲斐と信濃(北信濃を除く)を手に入れた家康ですが、畿内に目を移せば、羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り信長の後継者としての地位を固めつつありました。


秀吉に対抗するためにも北条との結びつきを強めたい家康は、和睦の条件であった督姫を氏直の元に嫁がせ約束を履行します。さらに、昌幸に対し沼田領を北条に割譲することを命じますが、昌幸はこれを拒否したのです。


同盟を強化したことで背後の心配のなくなった家康は、1584年になると出陣し小牧、長久手で秀吉軍と対峙します。


小牧、長久手の戦いは3月から11月までおよそ8か月間にわたり行われます。長久手の戦いで秀吉方の武将 池田恒興と森長可を討取った家康が優勢なまま講和となりました。


家康が信濃から目を離したこの8か月間は昌幸にとってとても大きなものでした。家康からの離反を考えていた昌幸は、反真田の中心的人物であった室賀正武(むろがまさたけ)を攻めこれを滅ぼしています。


一説には、家康が室賀に昌幸暗殺を命じ、これを察知した昌幸が返り討ちにしたのだと言われています。室賀を討ったことで小県郡を完全に掌握した昌幸は、徳川を見限り上杉に鞍替えします。


徳川の力を借りて小県の支配を進め、家康のいない隙に目の上のこぶである室賀を倒した昌幸!徳川の支援を受けて築いた上田城を、今度は徳川と戦うための要塞として使います。


まさに策略家真田昌幸の面目躍如といったところです。

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