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楫取素彦 諸隊騒動から群馬県令就任まで

版籍奉還によって領地を朝廷に返上した長州藩では、藩主毛利元徳(もうりもとのり)が藩知事となりますが、収入源による財政難のため奇兵隊ら諸隊を解散するという苦渋の決断をします。


新たに御親兵として2千名を雇用しましたが、武士が優遇されたため解雇された庶民が反発する事態となります。

四境戦争~戊辰戦争まで長州藩のために戦った諸隊の隊士たちは使い捨てにされたとの思いが強く不満が高まります。


諸隊の隊士たちはもともと農家の次男、三男など家を継ぐことのできない者が多かったため、藩から支給される手当てがなくなると生活していくことが困難になります。


追い込まれた諸隊は、藩の庁舎を包囲して解散の撤回を求めました。諸隊の要求に対し、藩の権大参事となっていた楫取素彦(かとりもとひこ)が説得にあたります。


一報を受けた新政府の木戸孝允は、騒ぎが全国に広まることを危惧しすばやい行動に出ます。


討伐兵を編成して長州に乗り込むと、藩の正規兵とともに諸隊に攻撃をしかけこれを撃破しました。騒動の首謀者たちは処刑され多くの者が処罰されたのです。


木戸孝允の容赦ない断行に反発した前原一誠は参議の職を辞し新政府を去ります。楫取素彦もまた多くの犠牲者を出してしまったことに責任を感じ、藩の役職を辞任して隠遁生活を送ることになったのです。


楫取素彦と妻の寿は三隅村の二条窪という村落に家を建て自給自足の生活をするようになります。寿は仏教への信仰心が強く小さなお堂を建てて村人とともに読経をしたそうです。


素彦と寿が平穏な生活を送っている間に新政府では国の方針を巡り争いが起こっていました。


1873年には西郷隆盛、江藤新平、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣が参議を辞任する明治六年の政変が起こり、翌年には江藤新平が不平士族を率いて反乱(佐賀の乱)を起こし鎮圧されます


版籍奉還、秩禄処分により職を失った士族の不満が高まり全国的に不穏な空気が流れます。


新政府の木戸孝允、井上馨、伊藤博文、山県有朋は長州の不平士族の動向を気にしていました。

特に政府の参議まで務めた前原一誠と不平士族が結びつき蜂起することを恐れていたのです。木戸は長州に赴き新政府に復職するよう前原を説得しますが失敗に終わります。


木戸は諸隊騒動の責任を負い辞任した楫取の動向にも気を配っていました。楫取は毛利敬親の側近として藩政に携わり人望もありました。


また、吉田松陰の身内であり松下村塾の運営にも協力していた関係で塾生との交流もありました。


松下村塾出身の前原と楫取が結びつき新政府に反旗を翻せば、大規模な反乱につながりかねない危険性があったのです。


このまま楫取を山口に残しておくのは危険だと感じた新政府は、楫取に対し足柄県(現在の神奈川県西部と伊豆半島を管轄した県)に出仕することを要請します。楫取はこの要請を受け寿を残し単身で赴任したのです。


隠遁生活を送っていた楫取がなぜ再び政府の職に就く決心をしたのか?詳細はわかりませんが、「山口を出て欲しい!」という木戸の意図をくみとったのかもしれません。また、「山口に居ると騒動に巻き込まれる」と感じたのかもしれません。


足柄県の役人として仕えることになった楫取は半年後に足柄県参事となり、2年後(1874年)には熊谷県権令(現在の埼玉県と群馬県を管轄した県)となります。


さらに、1876年4月には熊谷県令となり、8月になると府県統合により熊谷県が廃止され第二次群馬県が発足すると、群馬県令(現在の群馬県知事に相当)に就任するのです。


楫取が群馬県令となっ2か月後に前原一誠が蜂起して萩の乱を起こします。反乱はすぐに鎮圧され前原は弁明も許されず処刑となります。


楫取は熊谷県権令となった年に家族を呼び寄せていたため、楫取夫妻が巻き込まれることはありませんでした。


しかし、寿の兄杉民治(杉梅太郎)の嫡男で吉田家を継いでいた小太郎が反乱軍に参加をして戦死しています。同じく民治の長女滝子の婿となっていた杉相次郎も反乱軍に加わっていました。


さらに、寿の叔父玉木文之進は教え子たちの多くが前原とともに蜂起したことへの責任を負い、先祖の墓前で割腹して果てるのです。


多くの犠牲を出しながら近代国家として歩みを始めた日本!楫取夫妻はその一翼として群馬県の発展に尽力することになります。

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