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小田村久米次郎 おだむらくめじろう(楫取道明 かとりみちあき)と芝山厳事件(しざんがんじけん)

小田村久米次郎(おだむらくめじろう)は長州藩士である父小田村伊之助と母寿の次男として1858年に誕生しました。同じ母の兄に篤太郎(とくたろう)がいます。


久米次郎の幼少期については史料がないのでよくわかっていません。久米次郎の名が知られるようになるのは、久坂家の養子となったころからです。


久米次郎の叔母である文と久坂玄瑞の間には子が生まれなかったため、久米次郎が久坂家の養子に迎えられます。


禁門の変で玄瑞が自刃すると、久米次郎が久坂家を継ぎますが、その後に玄瑞に隠し子(秀次郎)がいることが発覚!


紆余曲折があり、久坂家は秀次郎が継ぐことになり、久米次郎は小田村家に復籍します。


幕末の動乱の中、命を狙われた父小田村伊之助は、藩主である毛利敬親のすすめで名を楫取素彦に改めます。小田村の名を残したい伊之助は長男の篤太郎に小田村家を継がせ、次男の久米次郎に楫取家を継がせました。


久米次郎は楫取道明(かとりみちあき)を名乗り、父素彦や伯父吉田松陰と同じく教育者としての道を歩むようになります。


1894年に勃発した日清戦争に勝利した日本は、下関条約で台湾の割譲を受け、台湾総督府を設置して台湾の統治に乗り出します。


初代総督となった樺山資紀(かばやますけのり)は、教育の充実を唱える伊沢修二(いざわしゅうじ)の意見を取り入れ芝山厳(しざんがん)の地に学校 芝山厳学堂(しざんがんがくどう)を建設します。


現地住民の教育にあたるべく日本国内から優秀な人材が選ばれ台湾に派遣されますが、その中のひとりが楫取道明だったのです。


伊沢と楫取を含む8人の教師が教育にあたりました。開校当初は生徒数がわずか6人でしたが、その後入学希望者が増え21人となります。


順調にスタートしたかに思えた芝山厳学堂ですが、この頃になると台湾各地で日本の統治に反対する抗日ゲリラの活動が活発になります。


芝山厳周辺も不穏な空気が流れ、日本人教師たちにも危害が及ぶ可能性がでてきました。同じ頃、台湾統治のため台南に出征していた能久親王がマラリアに罹り1895年10月28日に亡くなります。


この関係で、伊沢修二と山田耕造(やまだこうぞう)が日本に一時帰国することになったのですが、二人が芝山厳学堂を離れている間に事件が起きてしまったのです。


この頃になると芝山厳周辺の治安はさらに悪化し、抗日運動が激しく展開されます。心配した周辺の住民は避難することを勧めますが、教育に命をかける楫取道明ら日本人教師たちは芝山厳学堂から離れようとしませんでした。


1896年の元旦 残った6人の教師と用務員1人が台北で行われる拝賀式に出席するため芝山巌を下山しようとしたときに抗日ゲリラの襲撃を受けたのです。


100名とも200名ともいわれるゲリラに囲まれた教師たちは、教育の必要性を説き説得を試みますが、受け入れられず7人全員が惨殺されてしまったのです。


事件の一報を聞いた伊沢たちはすぐに台湾に戻り事態の収拾をはかります。遺骨を芝山厳に葬り、「学務官僚遭難之碑」を建立して慰霊祭を行ったのです(石碑の題字は伊藤博文によるものです)


教育に命を捧げ非業の死を遂げた楫取道明(享年38)ら6人の教師はのちに六氏先生(ろくしせんせい・りくしせんせい)と呼ばれました。


■芝山厳事件で殉難した人たち
楫取道明
井原順之助
桂金太郎
関口長太郎
中島長吉
平井数馬
小林清吉(用務員)

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