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豊臣秀吉の朝鮮出兵・文禄の役

国内をほぼ統一した秀吉の野望は海外へ向くことになります。東アジアを征服するための最大の敵である明を攻めるためには、まずその前にある朝鮮を服従させる必要がありました。秀吉は朝鮮と明へ出兵するための前線基地として肥前に名護屋城を築き準備を着々と進めていきます。


1591年8月5日、茶々と秀吉の子である鶴松が病のため帰らぬ人となります。ドラマや小説などでは、鶴松を失った悲しみで秀吉が朝鮮への侵略を開始したと描写されることが多いことから、鶴松の死が原因で侵略を行ったと思われがちですが、


明と朝鮮への侵略は鶴松の死以前から計画されていて鶴松の死が直接の原因ではありません。ただし、鶴松の死を嘆き悲しんだ秀吉の怒りの矛先が明と朝鮮に向かったことにより、出兵の時期が早まった可能性は否定できません。


秀吉は日本の軍事力をもってすれば朝鮮はたやすく屈服し、その朝鮮を明征服の先鋒にするつもりでしたが、朝鮮は拒否したため、まず朝鮮を攻めることになります(文禄の役)。


朝鮮侵略には九州の大名を中心におよそ16万の大軍が動員され、全軍を9つの軍団に編成しました。

一番隊・・・小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前
二番隊・・・加藤清正、鍋島直茂
三番隊・・・黒田長政、大友義統
四番隊・・・毛利勝信、島津義弘、島津忠豊、伊東祐兵、
五番隊・・・福島正則、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正
六番隊・・・小早川隆景、立花宗茂、毛利秀包、安国寺恵瓊
七番隊・・・毛利輝元
八番隊・・・宇喜多秀家
九番隊・・・豊臣秀勝、細川忠興


1592年4月朝鮮の釜山浦に入港した一番隊は釜山鎮城を陥落させると漢城目指し支城を次々に攻略!加藤清正の二番隊、黒田長政の三番隊も上陸して漢城へ進軍を開始します。


日本軍の破竹の勢いに恐れをなした朝鮮国王は漢城を捨てて平壌に逃れたため、たいした抵抗も受けずに漢城へ入城し、上陸からわずか20日あまりで首都を制圧。さらに国王が逃げた平壌に向かい軍を進め、6月15日には平壌を占拠し明との国境へ逃げる国王を追い朝鮮の王子を捕虜にします。


陸上戦では快進撃を続けた日本軍ですが、海戦では李舜臣率いる水軍に手痛い敗戦を受け、補給路を断たれます。やがて前線にいる兵士への物資の輸送が滞るようになり、深刻な兵糧不足となります。


漢城に入城した日本軍は、制圧した地の統治を開始!検地や日本語教育を行ないますが、これらの行為に憤激した民衆が義兵となり、日本軍に対してゲリラ戦を展開することになるのです。


海戦での敗戦や義兵の出現で補給路を断たれ、さらに明軍が本格的に援軍を出してくるに至り、朝鮮全土に分散していた兵力を終結させ、漢城の防衛にあたらざるを得なくなります。


平壌を守っていた小西行長の軍およそ1万6千に、明の援軍4万と朝鮮軍1万が襲い掛かり激しい戦闘が行われました。小西軍はよく持ちこたえましたが、圧倒的な兵力の差に撤退を余儀なくされ平壌から落ち延びます。


小西軍の敗戦により明との決戦を覚悟した日本軍は、宇喜田秀家、小早川隆景、立花宗茂、毛利秀包ら総勢4万の軍が勢いにのり攻め込んできた明、朝鮮連合軍と漢城近郊で激突!


激しい戦闘の結果日本軍が勝ちをおさめ明、朝鮮連合軍を平壌まで撤退させることに成功します。取りあえず勝利した日本軍ですが、これまでの戦闘や疫病、寒さなどで多数の兵を失い漢城を死守することも難しくなっていました。


また、明軍も戦国の世を生き抜いてきた日本軍の強さを知り、これ以上戦いが長引くと自軍の犠牲者が増えることを懸念したため、双方に和議の気運が高まります。小西行長、石田三成が中心となり明との和平交渉が始まり、一時停戦状態となるのです。

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