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藤原忠通(ふじわらのただみち)

藤原忠通*藤原忠通


藤原忠通(ふじわらのただみち)は1097年 父 藤原忠実と母 源師子との間に誕生しました。同じ母を持つ姉に泰子(のちに鳥羽天皇后となる高陽院)母違いの弟に頼長がいます。


父忠実が白河院の怒りをかい謹慎の身となったことで、1121年関白に就任します。忠通には男子が誕生せずこれを心配した父忠実は弟である頼長を養子にすることをすすめます。忠通はこの要請を受け頼長を養子にするのですが、その後男子が誕生したためこの養子縁組を解消してしまうのです。


忠実は氏長者の地位を忠通から剥奪し頼長に譲ることで両者の対立は決定的なものとなります。忠通は、娘である聖子(きよこ)を崇徳天皇に入内させます。


崇徳天皇と聖子の仲は良かったようですが、子宝に恵まれなかったため、崇徳天皇は別の女性に皇子(重仁親王)を生ませます。このことが原因で忠通と崇徳天皇の間に亀裂が生じたといわれています。


忠通は鳥羽院が寵愛する藤原得子(美福門院・近衛天皇の母)に近づき忠実、頼長に対抗します。


鳥羽院崩御後に起こった保元の乱では得子のバックアップを受け後白河天皇方につき勝利者となります。しかし、1158年に後白河天皇の側近として力をつけていた藤原信頼といざこざをおこしたことが原因で謹慎となり、関白職を嫡男の近衛基実に譲り自らは出家して円観と名乗り、1164年 68歳で病没します。


忠通以後、藤原摂関家は近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家の系統に分かれます。これを五摂家と呼び、五摂家の中から摂政、関白が選ばれることになります。


忠通は多くの男子をもうけましたが、一級の史料として知られている日記「玉葉」を記したのが六男の九条兼実です。また、歴史の教科書にも登場する「愚管抄」を記した天台座主の慈円は忠通の十一男です。


藤原忠通 系図*藤原忠通 系図

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