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古墳時代と大和政権

邪馬台国以降倭国では畿内や九州を中心にたくさんの古墳がつくられるようになります。古墳は3世紀末から7世紀にかけてつくられたことからこの時期を古墳時代と呼びます。以前は大和時代と呼ばれていましたが、現在では古墳時代が一般的に使用されています。

これらの古墳は特定の権力者を葬るための墓であり、巨大な古墳の登場は大きな力を持った権力者の出現を示しています。 特に畿内には大きな古墳が集中していることから、このエリアを中心に大きな連合政権(大和政権)が誕生し、やがて東北から九州までを支配下に治めるようになったと考えられています。

日本の古墳はその形状により前方後円墳、前方後方噴、円墳、方墳などに分類されます。古墳時代にはおよそ20万の古墳がつくられました。大きな古墳はほぼすべて前方後円墳で畿内に集中しています。

円墳
*円墳

方墳
*方墳

前方後円墳
*前方後円墳

前方後方墳
*前方後方墳

大和政権では支配下においた国に銅鏡と古墳をつくる許可を与えたため、大和政権の力が強くなってきた4世紀から5世紀にかけて西日本を中心にたくさんの前方後円墳が築かれます。

日本最大の古墳は大阪府堺市にある大仙古墳(仁徳天皇稜古墳)で、墳丘の長さは486メートル、前方部の最大幅は305メートル、高さは35メートルもある巨大な前方後円墳です。

倭の五王

中国の歴史書では「魏志」倭人伝にある壱与(台与 とよ)の記述以降 およそ100年間倭国に関する記載がありませんでした。中国では265年に魏が晋に滅ぼされ晋が中国を統一しますが、北方部族に攻められしだいに南部に追いやられていきます。

北部では様々な勢力が覇権を狙い争いを繰り広げる五胡十六国時代へと突入しますが、4世紀末になると北魏が建国されます。南部では420年に晋が宋に滅ぼされます。

この宋の歴史書「宋書」倭国伝には倭の王讃(さん)が421年に宋に使者を派遣し、その後讃(さん)を含むう5人の王が定期的に使者を送っていたことが記述されています。

これにより4世紀から5世紀にかけて畿内に強力な連合政権(大和政権)が誕生し、次第にその勢力を広げていったことが推測できるのです。

倭の五王とは讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)のことで以下のいずれかの天皇と考えられています。
讃・・・応神天皇、仁徳天皇、履中天皇のいずれか
珍・・・仁徳天皇か反正天皇
済・・・允恭天皇
興・・・安康天皇
武・・・雄略天皇

大和政権は地方のクニと同盟を結び逆らうクニは力でねじ伏せ、しだいに勢力を拡大していきます。やがて倭の王は大王と呼ばれる特別な存在となり、服従したクニの王は豪族となり大王を中心とした体制が確立されるのです。

大和政権と海外派兵

倭の五王の時代、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の勢力が拮抗し、南部には小国の連合体である伽耶(任那)が存在していました。倭の五王は鉄資源や製陶、織物,金属加工など大陸の進んだ技術を得るために百済との関係を強化していきます。

高句麗、新羅、百済、伽耶(任那)地図
*古墳時代の朝鮮半島

百済の要請に応じて新羅と戦い勝利したこともありましたが、北部の高句麗が新羅と手を結び百済に進出してくると苦しい立場に立たされるのです。高句麗の好太王碑文には西暦400年に高句麗と新羅の連合軍が百済と倭の連合軍と戦いこれを破ったことが刻まれています。

朝鮮半島での勢力を保つために倭の五王は宋に朝貢し、宋から朝鮮半島における権益を認めてもらうことで戦いを有利に導こうとしたのです。倭の五王「武」は宋から「倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」という称号を得ました。

大和政権の国内統一と渡来人

大和政権は伽耶や百済を通じて大陸の進んだ技術を取り入れ発展してきました。鉄製農具を使うことで田畑の開墾が急速に広まり作物の収穫量が増加します。鉄製の武器や武具は大和政権に逆らう地方のクニとの戦で威力を発揮しました。

さらに宋に朝貢し、宋の皇帝から「倭王」の称号を与えられることで、大和政権の王が国内を統治する唯一の王であるという後ろ盾を得るのです。大和政権は渡来人と呼ばれる大陸から移り住んできた人々を役人として登用したり、職人として居住地を与えます。

渡来人を積極的に受け入れることでその進んだ技術を自分たちのものにした大和政権は、専用の施設で生産した物(鉄器や須恵器)を従えたクニに与えます。こうした生産物の普及は地方の発展に貢献するとともにそこに暮らす人々の生活を豊かにしたのです。大和政権は渡来人によってもたらされた最新の技術や生産物を従えたクニと共有することで実力を証明し国内を統治する大王として認めさせたのです。

氏姓制度(しせいせいど)

3世紀末畿内を中心に誕生した連合政権(大和政権)は大陸の進んだ技術や文化を取り入れることで発展しました。その勢力は瀬戸内海沿岸から九州へと広まり、やがて関東や東北の一部までをも支配下におくようになります。新たに従った豪族たちを支配体制に組み込むため大王を中心とする統治組織を築きあげていきます。それが氏姓制度です。

氏(うじ)・・・血縁でつながる同族の集団。地名や職種によって氏がつけられました。
姓(かばね)・・・地位を示す名称で政権内での身分の序列をあらわします。中央の豪族には臣(おみ)や連(むらじ)、地方の豪族には君(きみ)や直(あたえ)、国造(くにのみやつこ)渡来人には忌寸(いみき)や村主(すぐり)が与えられました。
臣(おみ)・・・大王家から分かれた皇統の氏で葛城、平群、巨勢、蘇我、吉備など。
連(むらじ)・・・大王家とは違う皇統の氏で大伴、物部、中臣など。

臣や連は大和政権を支える有力な豪族ですが、その中からさらに力のあるものが大臣(おおおみ)や大連(おおむらじ)に 任命され、政治を担うことになります。

継体天皇と磐井の乱

倭の五王のうち最後の王である「武」は、大王の権力を強固なものにするため従わない地方の豪族と戦をし、さらに大陸への遠征も積極的に行いました。こうした強権的な手法により国内を統治した武王ですが、その武王が亡くなると大王の座を巡り政権内で対立が生じます。

そこで、越前で勢力を持っていた「男大迹(おおど)王」を大王に迎え新たな体制を敷くことにしました。「おおど王」の出自は謎につつまれていて、応神天皇と血縁関係があるとする説と、それまでの大王とはまったく別の系統であるとする説もあります。どちらにしても大和政権と深い関わりを持っていたようです。

「おおど王」は、大和政権の大王「継体天皇」となり治世に取り組みます。継体天皇在位中朝鮮半島では百済と新羅が伽耶を支配すべく虎視眈々と狙っていました。

百済は513年倭に五経博士を送り伽耶支配を認めさせる外交を展開します。520年には新羅が伽耶に進攻を開始したため、苦境に立たされた伽耶は倭に援軍を要請!527年継体天皇は6万の軍勢で遠征を計画しますが、新羅と手を結んだ九州の豪族筑紫国造(みやつこ)磐井が反乱を起こしこれを阻止するのです。

大和政権を支える磐井の反乱に政権は衝撃を受けます。九州で大きな力を持つ磐井は1年以上抵抗を続けますが、最後は継体天皇が送った物部麁鹿火(もののべのあらかひ)によって鎮圧されます。

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