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弥生時代

今からおよそ3000年前から1700年前を弥生時代と呼びます。中国の長江周辺で始まった稲作は縄文時代の終わりごろに九州に伝わります。日本に伝わったのはジャポニカ種という種類のお米です。大陸から移り住んできた渡来人が稲作を始め、彼らと交流を重ねながら弥生時代の人々は米づくりの技術を学んだのです。こうして稲作は西日本一帯に広まり安定した食料を確保できるようになりました。

縄文時代に作られた土器により食料を煮炊きできるようになったことで保存ができるようになったのですが、動物や魚介類、きのこ、木の実は必ずとれるとは限らず、安定した食料の確保までには至りませんでした。

稲作が伝わったことで人々は稲作に適した低湿地に定住するようになります。稲作をするための水田や水路、排水施設をつくるためにはたくさんの人の力が必要でした。人々はむらをつくり互いに協力しながら施設を築き必要な農具を考案しました。こうしてお米という安定した食糧を確保することができたのです。

稲作のための農具

稲作を円滑に行うために人々はいろいろな農具を使いました。田を耕す鋤(すき)や鍬(くわ)、田植えをするとき苗を乗せて運ぶ田舟や泥の中に沈まない田げた、稲を刈る石包丁、稲からもみがらを取り去る脱穀には杵(きね)と臼(うす)が使用されました。

田げた
*田げた

石包丁
*石包丁

これらの農具は鉄が伝わると木製から鉄製へと変わっていきます。収穫したお米は穴を掘り土器に入れて保管していたのですが、やがて通気性の良い高床倉庫に貯蔵されるようになりました。

弥生土器

弥生時代には高温で焼いた厚みの薄い土器がつくられるようになります。縄文土器のような派手な模様がなく赤褐色で硬いという特徴があります。1884年東京文京区弥生町で発掘されたことから弥生土器と名づけられました。

煮たり焼いたりするための甕(かめ)、収穫した稲を貯蔵しておく壷(つぼ)、食べ物を盛る鉢(はち)や高杯(たかつき)、水やお酒を飲むときに使う土器もありました。

弥生土器
*弥生土器

弥生時代の食生活

弥生時代に始まった稲作によりお米を中心とする食文化が成立しますが、現在のように毎日お米を食べていたわけではありません。収穫量も少なかったことからシカやイノシシを狩る狩猟、魚をとる漁も行われブタなども飼育していたようです。

弥生時代の遺跡を調査すると、どんぐりや木の実、三菜、きのこ、大豆、アズキ、ヒエ、アワ、ムギ、果物などを食べていたことがわかります。

むらからくにへ

縄文時代の人々はとった獲物を平等に分けあっていたため身分の上下や格差はありませんでした。弥生時代になり稲作が始まるとむらの運営や稲作を指導する首長が現れるようになり、むらの中で身分の差がでてきました。

また、稲作を行っている豊かな地域と行っていない貧しい地域があらわれ、稲作を行っている地域でも豊作と不作で貧富の差が生じてきました。

米づくりに適した土地や水の利権をめぐる争いも頻繁に起きるようになったことから、それぞれのむらの首長が話しあいをおこないもめごとを調整するようになります。

しかし、話し合いでも解決しないときはむら同士の戦いになり、やがて力の強いむらが弱いむらを従え大きなくにへと発展していったのです。

吉野ヶ里遺跡

佐賀県の筑紫平野にある丘陵地帯に弥生時代最大の遺跡が発見されます。吉野ヶ里町で見つかったことから吉野ヶ里遺跡と名づけられました。

吉野ヶ里遺跡は縄文時代から弥生時代にかけて栄えたむらで、最盛期には1000人を超える人々が暮らしていたと推測されています。

外堀の内側にさらに内堀を構えた二重の堀(環濠 かんごう)を持ち、土塁や柵、物見櫓、高床倉庫、高床住居、王族の墓である墳丘墓(ふんきゅうぼ)があったことから女王卑弥呼が治めた邪馬台国ではないかとされ注目を集めました。

吉野ヶ里遺跡からは王族のものと見られるひつぎやお墓(甕棺墓 かめかんぼ)、装飾品、銅剣などが発掘されています。また、多数の人骨が出土していますが、その中には矢じりが突き刺さった骨もありました。

敵をいち早く発見する物見櫓や侵入を防ぐ堀や土塁、柵など吉野ヶ里遺跡と同じような設備をもつ環濠集落が他にも発見されていることから、弥生時代後半にはむら同士の争いが激しくなっていたことが伺えます。

「漢の奴の倭の国王」の金印

中国の歴史書「漢書」には弥生時代中期の日本に関する記載があります。「楽浪海中に倭人有り。分れて百余国をなす。歳時を以て来り献見すといふ」との記述があることから、このころの日本は小さい国が100近くあり漢の楽浪郡に貢物を納めていたことが推測されます。楽浪郡とは漢の出先機関で現在の平壌にありました。

また、中国の歴史書「後漢書」の中の東夷伝には西暦57年に倭にある奴国の王によって派遣された使者が、後漢の光武帝から金印を与えられたとの記載があります。江戸時代に志賀島で「漢委奴国王」と刻印された金印が発見されるのですが「漢の奴の倭の国王」と読めることから「後漢書」に記載されている金印である可能性が高くなりました。このことから「後漢書」東夷伝の記述が正しいことが裏付けられたのです。

漢の奴の倭の国王 金印
*志賀島(しかのしま)で発見された金印

倭国大乱と邪馬台国

「後漢書」東夷伝によると西暦107年に倭の王が奴隷160人を皇帝に献上したとの記述があり、さらに147年から188年の間に倭国が大いに乱れたとも記されています。このことから2世紀後半の日本では小国がお互いに勢力を拡大しようと激しい戦を繰り広げていたことがわかります。

中国では後漢の力が衰え国をまとめられなくなり、魏、呉、蜀の三国時代へと突入します。その魏の歴史書「魏志」倭人伝には倭国は男の王を立てたが争いが治まらなかったとの記述があり、さらに邪馬台国の女王卑弥呼のもとに30ほどの小国が集まり新たな連合国が形成されたと記されています。

女王卑弥呼を中心に新たな社会を構築していく倭国ですが、これに参加をせず敵対する勢力も存在しました。そのうちのひとつが狗奴国です。卑弥呼は狗奴国との争いを有利に導くために239年魏に使者を送り皇帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡を授かることに成功します。

しかし、狗奴国との争いが続く中卑弥呼が亡くなります。連合国は新たに男の王をたてますが、争いが絶えることはなく大いに乱れたのです。そこで卑弥呼の一族から壱与(台与 とよ)を王に迎えると再び国はまとまります。

中国の歴史書には壱与(台与 とよ)以降 倭国に関する記述が見られないことから、その後倭国がどうなったのかを知ることができません。

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